Way to be HAPPY

Life is a Journey

瞑想というもの

私は、巷で噂になっている瞑想などというものに一切興味を抱いてはいなかった。

というよりも、瞑想なるものに挑戦しようとしたところで、眠ってしまうか、邪念だらけでにっちもさっちもいかないという現象が起こり、私には縁がないもの、という認識に至っていたからである。

 

いろいろな本が出版されている。

瞑想の効果、とか、瞑想による云々・・・などなど。

確かに、睡眠前に瞑想をするとよりよく眠れることは実証済みであったが、それ以外の効能というものには興味がなかった。だって寝てしまうもの。

 

ちなみに、ヘミシンクといういかにもアメリカらしいやり方の方法があるけれども、いつもいつも例外なくお眠りしてしまう私としては、変性意識ってなんやねんと思っていた。

 

そんな私が何故か、沖縄で行われる瞑想のワークショップ(3日間)に参加することとなった。

しかも、この春分の時期に。ちょうど3日目が春分であった。

 

だんだん私のブログは、スピリチュアル的な感じになってきているとは思うけれど、精神的に問題があったり、何か人間というものに問題意識がある人は結局ここに行き着くのだと思っている。

 

というよりも、私の持論なのなけれど、心理学、数学、物理学、哲学、その他もろもろは、結局そこに行き着くのだと思っていて、結局「それ」を解明したいがために、入り口は違うけれども、同じところを目指しているように思っている。

 

クオークだって、数式だって、結局「それ」を人間の現在の脳みそで理解できる物質的な形に表現したいだけなんじゃないかと。

 

「それ」ってのは、曖昧な観念なので、みなさんに表現はお任せいたします。

ある人は、愛と言うし、ある人は、神と言う、そういう曖昧模糊とした観念なのだと思っている。あ、クオーク然り、ね。

あの観測した時に登場しちゃう辺り、ものすごくそういう感じがする。

物質か、物質じゃないか、人間が見た時にしか決定しないあたり、もう、そうでしかないよね〜状態。笑

そう考えると、人間というのは、ある意味フィルターであって、それを観測するために高機能な何かを搭載してるんじゃないかとも思ってしまう。

人間という存在のために作られたかどうかは定かではないけれども、その観測される存在は、人間という存在をある程度視野に入れて設計されていたのではないかと。

真実は神のみぞ知る、だけれどもね。

 

ということで、私は何故かその瞑想のワークに参加した。

 

そこで得たこと、それはかけがいのない経験であったし、かけがいのない気づきであったし、かけがいのない心理であった。

かけがいのない、って言葉よく使われているけど、これって、「掛け買い」から来たのね。変換していて気がついた。なんという商人的な言葉。笑

それか、言霊として「かけがい」があったのか?

私には知りようもないけれど。語感が好きね。

 

正直、瞑想なんてしたって無駄でしょ〜くらいで参加したのだけれど。

 

瞑想もそうだけれど、気づきという観点で考えると、素晴らしい体験だった。

 

人は気付かなければ、気付かない。

 

日本語的にはかなり崩壊しているけれど、今の私の気持ちを言い表すのであれば、これがぴったり。

 

分かっているけれど、できない

という状態は、本当は、気づいていないということなのだということも理解した。

そういう状態にある時、人は本当は分かってはいないのだ、と。

 

わかる、という言葉の定義が問題になってきそうだけれど・・・

左脳で、文章として理解出来るのと、腑に落ちる、というのは違うという表現ならわかりやすいかな、と。

 

人は、腑に落ちてこそ、実生活で活かしていけるのだと思った。

 

だから、本をいかに読もうとも、勉強しようとも、それが実生活で行動に移されなければ、なんの意味もないということ。

 

こればかりやっていると、「分かっちゃいるんだけど」現象が起きる。

私がそうだった。

あなたの言っていることはわかる。(これ以上言わんでもいいわ)

となる。

でも、実生活で生かされていないからまた同じことが起こり、同じことを指摘される。

そして、

「分かってます」って答えたくなる。又は、心の中で思う。

でも、それを指摘する方は、改善されていない行動を見ているから、

(こいつ、ホンマ口だけやなあ)となる。

 

あ、これは私のことだけれど。笑

 

でも、不思議と腑に落ちると、行動や言動が私の知らないうちに変わっていて、

「あ、変わったね」

とか、「ようやく分かったんだね」とか言われる。

 

腑に落ちるって、とっても大事なのだなあと感じた。

 

でも、人間だからさ、腑に落ちるまで、意味わからないんだよね。

私がずーっとそうだった。

 

でも、気付けて良かった。

今、ようやくそう思えるようになってきた。

境界性人格障害について〜ここは私の居場所じゃない〜

この本ね。

 

少しづつ思い出し初めてきた。

この本は大学時代に、付き合っていた男性が古本好きで付いていった古本屋で購入したものであった。

題名が、私の心情にぴったりだったから手にとって、結局中を見ないまま購入したのであった。

 

たった今、この本を読み終わった。

思うことは、この本は、今日まで私の本棚に存在する理由があって、なおかつ、このタイミングで手にとって読む必要があったということ。

去年でも、一昨年でも、タイミングが違えば、このような感情にはならなかったし、ここまでこの本を理解することもなかったということ。

 

これは、レイチェルという主人公が境界性人格障害と診断され、治癒するまでの4年間が記されている本である。

そして、彼女が幼い子供から大人の女性へとその4年間で成長していく物語でもある。

 

私は、実質4日をかけて読み終えたのであるが、4日間、レイチェルと一緒に成長してきた気がする。

 

そして、その4日間の間に、噂の春分を迎え、新世紀の元旦を迎え、私は沖縄で瞑想のワークに参加していたというこの共時性。ここがポイントなのである。

 

私は、レイチェルが4年間かかったことを、4日間で体験できたように思う。

 

それは、私が優れているとか、そこまでの病気じゃなかったとかではなく、ただただタイミングの問題なのだと私は思っている。

 

これが、1週間ずれても、2日ずれても、こうはならなかったはずだ。

 

私は、4日間かけて、大人になったのだと思っている。

 

未だに、未完了な問題を留めているかもしれない。

それでも、この成長は何にも代えがたい経験であったことは確かである。

境界性人格障害について

わたしが境界例(境界性人格障害)という言葉を聞いたのは大学2年生の時だった。

マックで本を読んでいた時、同じくらいの男性に話しかけられた。

というか、ほとんどナンパであった。

「君、可愛いね〜。何してるの?」

「本、読んでるの。(見ればわかるでしょ)」

という差し障りのない普通のナンパと同じ会話をしていた最中に、ふと、

「君って、境界例じゃない?」と言われたのだった。

境界例って言葉も初めて聞いたし、頭の中では、「キョウカイレイ」としか認識できず、漢字変換をすることができなかった。

聞き返すと、ううん、なんでもない。気にしないで。と言われた。

そんなこんなで、わたしはその時人生で初めて「境界例」という言葉に出会ったのであった。(その男ではなく、ね)

そいつとどうなったのかは、実はもう覚えていないのだけれど、そのシーンだけやたらと鮮明に覚えている。

そのあと、キョウカイレイを検索して、境界例(境界性人格障害)という言葉を知った。

そして、そのグーグル先生が教えてくれるサイトたちは、恐ろしいほどにわたしについての説明が書いてあるようにしか見えなかった。

 

ということを今日思い出した。

 

引越しを控えているわたしは、ダンシャリ(断捨離)に励んでいて、恐ろしいほど膨大な量の本棚に手を出した時に、奥から見つかった本が原因である。

 

その名も、「ここは私の居場所じゃない」

サブテーマとしては、「〜境界性人格障害からの回復〜」笑

 

いつ買ったのか、どこで買ったのか、はたまたなんでここにあるのかも不明というほどの忘れようだった。

まあ、家にある本の量を鑑みてみれば、それも仕方ないとも言える。

今回は、引越し屋さんの腰を慮って、本も断捨離するかという気になったというわけだった。

まず、引越しやさんからもらうダンボールの最小のサイズにしたって、すべて詰め込むと、彼らの腰がやられること間違い無しだからね。

 

ということで、興味津々で読んでみた。(読むのも初めて)

 

あなたは、わたしですか?

というくらい、わたしの感情について記されていた。

わたしと違うところは、わたしはもう、暴れることも他人に罵詈雑言を浴びせることも、しないというところだけ。

でも、きっと昔のわたしだったらやっていたであろう。

行動は違えども、心理構造がそっくりなのである。

 

わたしの特技は、サイキッカーよりも、IQ200の人間よりも(これまじで)、

他人の感情や表情が読み取れることである。

そして、相手にどう言ったら相手がどう行動するかのほとんどが予測がつく。

だからこそ、自分の周りにいる人間をコントロールしてきたようだ。

実は、自分が他人様をコントロールしているだなんて露ほどにも思っていなくて、この本を読んで、ああ、、、、と反省した次第である。

言ってみれば、自分をも欺いて、人をコントロールしてきたのである。

 

ということが、今日判明した。

目から鱗どころか、龍そのもの(というか魚か?)が出てきちまったかのような衝撃である。

それでも、思い当たる節はある。多分にある。笑

 

まだ読み始めだけれど、実はこの本がわたしを変える最後のチャンスなのではないかとも思っている。

 

いつまでも、他人をコントロールしてはいられない。

それでは、自分の成長にはならないし、いつか痛い目をみる。

そして、もう痛い目は多分にみている。笑

他人はコントロールできても、わたしに降りかかってくる事象はコントロールの対象外のようで、わたしはどこにいても、何をしていても、必ず事件にあって、人生において、痛い目をみ続けているのであった。

別に、被害者アピールをしたいわけではないのだけれど、やたらと事件が多いのは、わたしの根性のせいなのだということが、ようやく腑に落ちた。

自分をコントロールできないくせに、他人様をコントロールしている場合ではないのである。

 

そろそろ、春分。

3月20日までに、わたしは自分を変革しないと、もう人生詰むことがわかりきっているので、あと、数日、本気で取り組まなければいけないテーマだったりする。

 

そして、その鍵は、わたしがほとんど思い出せない幼少期にあると思っている。

 

 

擬態する蝶

好きという感情を奪われて、そもそもそのような感情がなかったということに気づかされて、どうやって人生に楽しみを見出していったらいいだろう。

人間を見て、人間を知り、人間を学んできた。

私は一体どちら様なのだろうか。

人間の体に生まれてきて、人間としての感情を持ち合わせてはいなかった。

感情というものは、他人から学んだ。というよりも、学習してきた。

彼らが、本当はどういう感情を持っているのか、私は知らない。

そうであろうと、憶測することしかできなかったから。

私の感情が、私の感情であるのか確信が持てない。

喜びとは何であろうか。幸せとは何であろうか。

学ぶ以外に湧き出てくる感情というものは一体どういうものなのであろうか。

私には、人間であると感じる時と、人間ではないと感じる時、そのどちらかしかないようだ。

擬態する蝶。

私は擬態することによって、人間たり得ると判断されている存在でしかないのかもしれない。

 

人の表情によって、感情を読み取れる。

人の声の質、トーン、音量によって感情を推し量れる。

人の動作によって、人の感情を憶測できる。

 

しかし、それは、私が人間であるという証明になるのだろうか。

 

人という形をした入れ物に入れられた、何か他の存在、エイリアンのようなものなのではないか。

 

この問いへの答えは、まだ出ていない。

それどころか、一生かかったって、答えなど見つからないのかもしれない。

もっと言えば、もともとその疑問への答えなど存在していないのかもしれない。

 

映画「おくりびと」

「おくりびと」
この映画を見ているとき、わたしは涙が止まらなくなった。
人々がいかにその職業を蔑もうとも、配偶者が蔑もうとも、そこに生きがいややりがいを見出す限り、それは天職なのだと。
それを思い出したのだ。
わたしは大学時代、人には言えないような仕事をしていた。
文字通り、人に言ったことはあまりないし、ここにも書きたくはない。
それでも、わたしはその仕事をしていたことを後悔したことは一度もない。
反省は何度もしたことはあるけれど。
そして、そのとき、わたしはこう思っていたはずだった。
「職業に貴賎なし」
そこには、需要があり、必要があるからこそ、その職業は存在するのだと。
誰に蔑まれようとわたしは気にしてはいなかったはずだ。
それなのに、そんなこともすっかり忘れていた。
知らぬ間に、人を地位や収入で選別するようになっていた。
前の仕事のせいかもしれない。
26歳で、こんな年収の女はわたしくらいなんじゃないかという変なおごりが知らぬ間にわたしの心を侵食していたのだ。
そして、自分たちで会社をやっているという変な自負もそれらをこじらせた。
夫がバカにしていたサラリーマンなるものを、わたしもバカにし出していたのだ。
それが、どうだ。
今のわたしは、サラリーマン(ウーマン?)にさえなれない、ただの臆病者に成り下がっているではないか。
わたしは怖かったのだ。
前の職業と比べられて、年収と比べられて、情けないと思われることを。
だからこそ、働くことも出来ずに、起業することも出来ずに、ただお金と時間とエネルギーを浪費することにこの1年半を費やしてきてしまったのだ。
これは、夫のせいなどはなかった。
わたしがわたしにそう思い込ませていただけだったのだ。
そして、比べるのは、実は周りの人間じゃないということも。
わたしがわたしを勝手に比べていたのだ。
ただそれだけの妄想にずっと取り憑かれていたのだと思った。
何にもなれない自分。誰にも認められない自分。
ずっとそれを恐れて、行動すること、1歩踏み出すことを避けていた。
本当は、誰もわたしのことなんてそんなに見ていないし、気にしてもいないだろうに。
ものすごい自意識過剰である。
だからこそ、誰に蔑まれようとも誠心誠意仕事に取り組んでいる主人公を見て、涙が止まらなくなったのだと思う。
何をしていても、どんな職業についていても、自分が自分を認めてあげれさえすれば、毎日はもっと楽しいものになるだろうし、充実した人生になるだろうに。
どうして、そんなことにも気づかなかったのだろう。
でも、もう大丈夫。
気づきがあれば、きっと人は変わっていけるから。
わたしはもう過去に執着することをやめる。
過去は、過去。
未来は、未来。
見えない未来を憂いていると、自分が今、ここから消え去ってしまう。
そして、毎日の色が薄くなっていく。
生きている実感が消えていく。
もう十分味わった。
だからもう、大丈夫。

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不可思議な感情と人生について

どうしても、なにに対してもまったくやる気が出ない。
自分に不安感以外の感情はない。
でも、それは、良く良く振り返って考えてみれば、年齢が2ケタになった時からだったような気がする。
今日、カウンセラーである先生に、それを指摘され、私は泣いた。
原因がまったくもはや分からな無くなっているからだ。
私の感情は一体どこに行ってしまったのだろう。
良く考えて見るように。と言われて私なりに考えて見た。
確かに昔は我ながらびっくりするほどに優秀だった。
小学生の時、計算をすべて終えた人から先生のところへ持っていくという算数の授業があった。
異常な速さで終えるたびに、先生は驚き、毎回毎回「カンニングしたのか」と聞いて来た。
よく考えればわかることだけど、計算を皆終えていないのに、カンニングをすることは不可能なはずだ。
それでも、私は傷ついた。
それからは、みんなが席を立ち始める気配をひたすらに待って、先生のところに持っていくようになった。
私は田舎で育ったので、塾もなければ、今でいう通信教育もなかった。
高校に入る前に、全国で一斉の模試のようなテストがあった。
私はそのテストに全教科とも全国で10位以内に入っていた。
そして、よく分からない業者が訪れ、勉強について脳の開発をしないかと営業をしてきた。
今でも覚えている。
でも、そこで父は言った。
「うちの娘はそんなんじゃないですから。」
というあの言葉。
あれは、おまじないだったのかもしれない。
それから、私は学校をサボるようになり、男の部屋に入り浸り始め、成績は坂を転がり落ちるかのように落ちていった。
あれは、もしかしたら反抗期のなかった私の唯一の仕返しだったのかもしれない。
でも、それが原因なのだろうか?
私はいつからこんなにやる気を失ってしまったのだろうか。
なにをしても変わらない、やるだけ無駄だと、いつから思い始めたのだろうか。
子供は、親のそんな一言だけで、そうも変わってしまうものなのだろうか。
私の感情はいったいどこに落としてしまったのだろう。
私は優秀だ、私には価値がある。
そう思えなくなったのはいったいいつからだったのだろう。
そこからは酷かった。
大学に入り、即引きこもりになり、その後はひたすらポンプ(注射器)で打ち回して、ポン中になった。
転落人生の代表例みたいな人生だった。
お金が無くなると、夜仕事をした。
キャバクラで、日払いのバイト。
いい男がいると、うっかりやってしまって、枕だと言われたく無いので、店を辞める。
それの繰り返しだった。
人生って本当に不思議である。
何が今後の人生を左右するかだなんて分からないまま、いろいろな現象にもみくちゃにされて、それでも、生きていかなければならない。
人生って本当に残酷だと思う。
そして、一番残酷なのは、わたしなのだと思う。
わたしがわたしにしてきたこと…実はそれが一番残酷なことだったろう。f:id:xphantasmagoriax:20170120213136j:image

読書記録「精子戦争」 ペニスのサイズについて

未だにハマって読んでいる「精子戦争」ネタ、まだまだ行きますよ〜笑

 

今日のネタはペニスのサイズについて、なので、ペニスのサイズに劣等感(というか小さい人)のある方は読まないことをオススメいたします。

嫌われたくないので、ね。笑

 

昔から、いろんなペニスを見てきて、ものすごく不思議だったことがある。

なぜ、サイズは一律ではないのか?

(というか、なんであんな小さい奴とデカイ奴が存在するのか)

ということである。

 

まあ、人は身長も違えば、体重も違うし、そりゃあペニスのサイズの違うでしょ〜と言われてしまえば、それまでなのだけれど。

でも、ペニスは生殖器。

そして、女性の生殖器はさほどサイズは変わらないはずなのだ。

締まりがいいか悪いかは、女性の生殖器がデカイ小さい関係なく、ありゃ筋力とそこに意識をして締められるかという、そこで決まるものでね。

幼い頃から下痢癖があった私としては、そこを締めるのが得意。

だから、締まりが良いと言われるだけなのである。

こればかりは、まあ・・・うんこに感謝すべしかな。笑

ということで、どうしてこんなにも差が出来ちまってるんだペニスは!!

と思っていた。

そして、たぶんペニスのサイズは遺伝するとも思っている。

まあ、父子共にやってみたことはないけれど、そんな気がする。

と思って生きてきたし、ヤッてきたのだけれど。

 

今日、「精子戦争」にやたらスッキリする理由が書かれていたので、ご紹介しよう。

 

実は、あのペニスさんの形にはきちんとした理由があるのだ。

あの「亀頭」は、私たち女性(たまに男)を気持ち良くさせるためだけにある訳ではなく、もっと実質的な理由があったのだ。

 

それは、

他の男の精子を掻き出すため!!!!!

である。笑

 

あの亀頭にひっかけて、精子を掻き出す役割が本当のお役目だそう。

だとすると、チリ人のペニス(調べてみてね)は世界中で勝ち目がないようにも思えてくるのだけど・・・

 

まあ、それは置いといて。

他の男の精子を掻き出して、自らの精子の生き残る率をアップさせようという目的を持って、亀頭は亀頭たり得ているそうな。

ということは、だよ。

デカイほうが、掻き出す精子の量は格段にアップするのである!!

 

ということで、普通に考えれば、デカイちんこの方が優秀なのである。

(精子の量と、質を同一だと設定するなれば)

 

なので、さらに普通に考えれば、ちんこが小さい人は淘汰されて然るべきなはずなのだ。

(小さければ、なかなか他人の精子はかき出せない→精子戦争ででかい奴より不利→故に子孫は残せない→世の中はちんこがでかい子孫ばかり・・・という論理)

でも、、、実際にはそんなことは起こっていない。

一定の確率で、小さい奴は未だに生き残っているのである。

そして、その確率は、昔と大差ないであろう。

 

なんでなんだ!!

(結局わたしの疑問は解消されてなかったりする。笑)

 

そこで、仮定してみた。

 

1、そもそも、他人の精子とこんにちはする可能性がそんなにない。

 何故なら、(一応)一夫一妻制度を取っている国が多いし、乱交パーティーをするか、または、相手とやった24時間以内くらいにまた他人に射精されない限り、そもそも精子戦争は起こらないから。

 

2、進化の仮定で、ちんこが小さい奴の方が、精子力(女子力みたい。笑)が強くなっている。

 実はこれ、結構信じている。何故なら、ちんこが小さい人は意外とタマがご立派な方が多かったように思うからだ。タマがでかいということは、精子の製造量もそれに比例して多くなるということ。

 

本当に何が起こっているかは不明だけれど、1も2も、意外と蓋然性があるように思えてきてしまうのでありました。

 

わたしとしては、もっとみんな乱交やら不倫やらしてくれていたら、今頃ちんこ大きいひとばかりだったんじゃないか(仮定1の立場)と思うと、悔しくて悔しくて・・・笑

 

かなり昔は、農村やらなんやらで盛大な乱交パーティーが行われていたのだけどね。

ヒジョーに残念である。

 

だからと言って、現代で、父親が誰か分からない!状態は非常に危険なので、わたしはそれはしないけれどもね。笑

 

ということで、結局謎は解けませんでしたね!ごめんなさい!

 

 

 

 

瞑想の思わぬ収穫

巷でよく聞く瞑想について、ちょっと挑戦してみたものの、

(なんだか、効果がよう分からんなあ・・・)と途中で放り投げた過去のあるわたし。

やはり、目に見えて効果が出ないと続かないような性格なのだろうと思う。

ところが、だ。

この前、ふと思い立って、寝る前に、そのまま寝ちまっても良いように、寝たまんま「瞑想」なるものをしてみた。

常に寝る時は、睡眠の質を測るために、脈拍計をつけているのだけれど、これがなかなか優秀で、脈拍数でレム睡眠かノンレム睡眠かをしっかり測ってくれるのだ。

 

www.epson.jp

いつもは、レム睡眠ばかりで、ノンレム睡眠がめちゃ少ないわたし。

なんと、1分とか(笑)

 

脳の眠り ノンレム睡眠

脳が眠っている状態と考えられています。眠りの深さによって4段階に分けられます。
浅い眠りから深い眠りへと進み、深さのピークを過ぎると今度は逆に深い眠りから浅い眠りとなり、そのあとレム睡眠へと移行します。
居眠りはほとんどがノンレム睡眠で、空いた時間にほんの少し居眠りするだけでも脳の休息になります。

  • ・入眠直後にあらわれる
  • ・夢はほとんどみない
  • ・身体を支える筋肉は働いている
  • ・眠りが深くなるにしたがって、呼吸回数・脈拍が少なくなる

身体の眠り レム睡眠

身体は深く眠っているのに、脳が起きているような状態の浅い眠り。
目覚めの準備状態でもあり、この時に目覚めると気分がすっきりします。

 だがしかし!

そのなんちゃって「瞑想」をしてから、そのまま眠りにつくことによって、ものすごくノンレム睡眠の時間がアップしたのであった!

 

ということで、寝る前にオナニーしている場合ではなくて、瞑想をする必要性を重々感じたのでございました。笑

 

みなさんも、ぜひ、寝る前の「瞑想」をお試しくださいませ〜

 

BEFORE

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AFTER

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早起き習慣化キャンペーン 8日目

たまに、お寝坊をすることもあるものの、基本的には5時には起きれるようになってきた 麗でございます。

 

やはり早起きは素晴らしい!(また言っていますが)

でも、早起き出来なかった時のあの1日をまるまるダメにしてしまいたくなる衝動は、かなり命取りですな・・・

私の性格上、ゼロ・100なもので、これは仕方のない副作用か。

 

そして、ラインのグループで早起きキャンペーンをやっているというのも効果的に起きれる理由かもしれません。

なぜなら、朝の5時に「おはようございます」しないと、(あ、こいつお寝坊さんやな・・・)と思われる!という変な恐怖感が私を早起きさせてくれていると言っても過言ではございやせん!笑

 

みなさんも、もし1人で起きれなそうだったら、グループでやってみるのもおすすめです!

そして、誘ったあなたが最後にみんなに心から感謝されるでしょう。笑

口とペニスだけの男たち

私の会社で働いて欲しい。

としつこく言ってくる人がいる。

わたしはそろそろ仕事がしたいと思っていたし、待遇も良いから働こうかと思った。

でも。

それとはまったく別の話になるんだけど、と付け足して、

どうしてもわたしとヤりたいのだという。

2ヶ月に1度でいい、それでもいいから泊まってはくれないかと。

それを断ったとしても、仕事において何か待遇を変えるということはないという前置きをして。

彼氏ができたのでごめんなさい、と言って、おめでとう!応援するね、と言った舌の根も乾かないうちにどうしてそんなことが言えるのか不思議である。

 

そして、もう1人。

愛している、愛している、愛している攻撃がラインで毎晩。

そして、毎回毎回、支えます、生活の面倒をみます、となんども言われる。

成功する前からの知り合いであるから、そこが良いのだと。

そして、こんなに長くわたしを愛し続けてる(一方的にな)のは俺くらいだろう、と。

まあ確かに6年も愛してる攻撃を受け続けたことはないわな。

確かに、それだけの金は有り余っているであろう。

わたしを囲っても、金銭的に痛くもかゆくもないだろう。

でもさ、それ、いったいいつ実行してくれるっていうの?

結局口だけ。ヤりたいだけ。わたしを所有したいだけ。

 

さらに、もう1人。

わたしと結婚している時にさんざんキャバ嬢と遊びまくっていたくせに、すべて惨敗すると毎度毎度、お前にみじめな思いはさせたくないんだ、なんでもするよ、だから戻ってきてくれないか。という電話攻撃をしてくる。

結局、奴隷が再び欲しいだけ。

っていうか、すでにもうみじめな思いはしてるっちゅーねんな。

金はあるくせにどけちだから、慰謝料をまさかの36回分割にした挙句に、個人でなく会社から振り込んでくる不届きものである。

そして、毎度毎度2〜3ヶ月遅れる。

結局、口だけ。

 

本当に男って口とペニスだけだよね。

 

自分の口に自分のペニスでも突っ込んでたらええねん。