Way to be HAPPY

Life is a Journey

幼少期の傷3

そして、困ったことに、そこそこ可愛いルックスだった為に、私の要望は周りの大人達によってある程度満たされ、大人になってからは、その役割を寄ってくる男性陣が引き受け、なんとなく生きてこれてしまったのだった。

目も当てられないブスだったら、もうちょっと早く気づけていたのかもしれないのに。

もう、この歳になるまで気づかなかったからには、かなりの重症である。

しかし、計算高いからか、なんなのか、それはほんの親しい人にしか発揮されない癖なので、母親か、恋人(または一発以上かました相手)かにしか気づかれない。

それ以外の人には、本当にいい子に見えるように計算して生きてきてしまったのだ。

その為、ずっと心の内側になにかくすぶっている爆弾のようなものを抱えて生きてきたのだと思う。

ただの知人や友達や兄弟・親戚には発揮できないからこそ、不平不満というか、欲求不満が日々募っていく。

その発散先が、母親か、成人してからは付き合っている相手だったのだ。

彼らに関しては、もう被害者の会を結成されても仕方のないくらい悪事を働いてきたと思う。

それでも、その悪癖は、最後の夫で終了した。

もう、すべてに諦めることに慣れきっていた。

誰も私のことなんて理解できやしない、と結婚生活の中盤で諦めた。

そして、それが故に、私の摂食障害は日々悪化していっただのだった。

感情のはけ口を求めているにもかかわらず、感情のはけ口が見いだせない。

だから、私はそれを過食嘔吐することによって満たしていたのかもしれない。

相手を責めることをしなくなってからは、ずっとその責める相手を自分自信に向けてきたのだった。

誰も分かってくれない。

誰も私を愛してはくれない。

誰も私を守ってはくれない。

そうやって、いつの日にか私は拗ねて、捻くれだしたのだと思う。

そうやって出来上がったのが、今の私の人格だった。

幼少期の傷2

今までは、ずっとカウンセリングで言われた通り、母親の愛情不足が原因だとばかり思っていた。

でも、実際は、そうではなく、おそらく父親の愛情不足が尾を引いているのではないかと思っている。

この情報のソースは、心理学だったかはたまたスピリチュアル的な方面によるものだったかは、不確かであるが、父親の愛情が不足していると、うまく受け取れない子になるという。

ちなみに、母親の愛情が不足していると、うまく与えられない子になるのだという。

私の場合は、お金でも時間でも、体でも求められたらついつい与えてしまうタイプであった。そこにも、おそらく問題は隠れているのだけれど、常に誰かに何かを与えることに喜びを見出して生きてきた。自分の存在意義が不確かだったからこそ、それをすることで、自分の存在意義を見出してきたところがあるのだと思う。

そして、もっと深刻な問題は、「受け取ること」であった。

なぜか、我が家では、誰かにおこづかいをもらったとき、一度はお断りするという習慣があった。そうしなさいと求められたことはなかったが、両親を見ていて自然と学んだのだと思う。人に何かをもらうときは1度断る癖がついていた。

そこから波及しているのか、なんなのか、例えば、「かわいいね」「綺麗だね」と言われても、素直に受け取れず、喜べない自分がいた。

デートで何を食べたい?と聞かれても、何も要求できない自分がいた。

誰かにプレゼントをもらっても、受け取れない自分がいた。

本当に困ったときでも、誰かにお願いすることができない自分がいた。

例えそれが自分を窮地に貶めることであっても、絶対に自分からお願いすることができなかった。

そして、同時に、お願いすることや、求めることができないからこそ、自分の欲求を果たす為に、人をコントロールするスキルがあがっていった。

相手に自分の欲求を、うまく提案させることに非常に長けていたのだ。

例えば、何か欲しいときや、何かして欲しいとき、行動や表情や直接的でない言動で、相手に提案させてきた。

「⚪︎⚪︎欲しいの?」とか、「⚪︎⚪︎しようか?」とかいった具合に。

そして、そのスキルがある為に、あまり困ったことにはならなかった。

だがしかし、結局その困ったことにならなかった生き方が、結局、今困ったことを生み出していたのだということに最近気づいたのだ。

100%相手をコントロールすることは、私を以てしても不可能なことである。

だからこそ、私の要望と相手の提案や行動に差異が生じる。

そして、それが私の欲求不満の根本の原因となるのだった。

まさに、身から出た錆である。

だがしかし、私はそれ以外に生き方を知らなかったのだ。

自分から誰かに要求するなんて、してはいけないことなのだとずっと思って生きてきたのだから。

幼少期の傷

思春期から成人してからの精神的な問題は幼少期に何かしらの問題があったという考えが心理学ではセオリーである。

 

私は、本当に今の今まで、何も問題のない幸せな家庭に育ったはずだと信じて疑わなかった。むしろ、幼少期に何かしらの問題があったと私が考えるということに罪の意識を感じていた。だからこそ、どこのカウンセリングに行こうが、精神科の先生に問われようが、「全く何も問題はありませんでした」と答えてきた。

むしろ、そこに着眼点を置かれることに憤ってさえいた。心理学だなんてたいそうな学問のように聞こえるけれど、結局犯人探ししているだけじゃないの、と思っていた。

 

本当は、そう思いたかっただけだったのだ。

 

幼少期の心理的なアプローチに関する質問に過剰反応したり、何もなかったという主張をすることに固執すること自体が問題であることに全く気付いていなかったのだった。

幼少期の記憶がほとんど抜け落ちているにも関わらず、そのような主張をし続けていることがすでに問題はそこにあるということを示していたはずなのに。

 

私は、何不自由なく中流の幸せな家庭で、両親に愛されて育った。

だからこそ、私が現状で摂食障害や、感情に関する問題を抱えていることは、罪である。という思想が私を牛耳ってきたのだと思う。

 

本当は、そんなことはなかったのだ。

 

最近になって、様々な幼少期のエピソードを思い出し始めている。

何がトリガーになったのかは、正直私もわからない。

瞑想だったのか、その瞑想ワークショップの講師の方の愛情に触れたことにより触発されたのかは、わからない。

 

客観的に見れば、幸せな家庭で、年の離れた末っ子で、一番可愛がられた。(と言われている)

でも、幼少期の私の感情はそうではなかったのだ。

そう思わなければいけない、と思って生きて来た結果がこれである。

 

だからとて、両親の私への愛情が足りなかったとか、虐待をされた、というのでもない。

幼少期に私は、愛に対して欲求不満を感じていた、ということなのだ。

両親が最大限の愛情を注いでくれたのかもしれない。

それでも、私の感じた愛情の量は私の求める愛情よりも少なかったということ。

誰が悪いというのではなく、事実がそうであったということなのだった。

 

私は、確かに、愛情をずっと欲していた。

最近思い出した記憶だけれど、私は2階の部屋で寝起きしていて、毎晩寝た振りをしては、階段のところで、両親に見えないところに位置しては両親の会話を盗み聞きしていたのだ。それは何を意味するかというと、私のことを愛しているのか、私の悪口を影で言われていないかの確認作業であった。また、私の今日の行動は正しかったのかどうかの確認も併せてしていたのだと思う。

それは、幼稚園の時から始まった習慣だったので、重度といえば重度である。

たまに、見つかっては、夢遊病だと言われたことも最近思い出した。

私は、寝てなどいなかったのだ。夢遊病ではなく、寝たふりをしては、両親の会話を偵察していたのであった。

 

そう考えると、今の私の問題の根は本当はかなり深いように思える。

もうすぐ29歳である。アラサーというものになっているのにも関わらず、自己の未消化の感情と日々戦っているのである。

 

私の中にはものごごろついた時から、大人の私と、子供の私が同居していた。

ものすごく大人びた発言をしたり、世の中をこんなもんかと冷めた目で見ている反面、泣きじゃくりたくなったり、癇癪をおこしたくなったりしていた自分がいた。

誰かに100パーセントべったりと甘えたい欲求が常にあった。

それでも、その甘えるということをしたことがなかったので、一体どうしたらいいのかわからずに生きてきた。

自分のことを愛してくれているかどうかの尺度を、甘えることができないために、わがままを言いまくり、相手を傷つけるような言動をし、それでもそばに居てくれるかどうかで、ずっと推し量って生きてきたのだ。

母親にそうしてきた。そして、付き合った相手にそうしてきた。

夫にももしかしたら、そうしてきたのかもしれない。

 

それが、私の人生における人間関係をややこしくしてきたのだろうと今ではわかる。

でも、少し前までは、全くわからずに、ただただ人を傷つけ、自分への愛情を確認して生きてきてしまったのだ。

 

沖縄で瞑想1

沖縄とは、とても私にとって意味のある場所であった。

なぜなら、元旦那と毎年3回以上訪れていた場所であったから。

高いリゾートホテルに泊まって、飲んで食って寝て、、、

結婚式も沖縄で挙げた。

素晴らしい結婚式だった。

だからこそ、本当は沖縄に行くということは、私にとって苦痛だった。

彼との思い出がある場所。

そして、自分が最大限恵まれた環境だった時に来ていた場所だったから。

高級ホテルで一流のおもてなし、というものに慣れすぎていたということに気づいたのは、何もない離婚後の私だった。

泊まるのは、安いビジネスホテル、又はひどい時にはカプセルホテル。

本来の私にとっては、屁でもない場所だったのだけれど、感覚が麻痺していたのでしょう。

自分は、セレブなのだと勘違いしていた。

それを、体現していたのがまさに沖縄だったのかもしれない。

そんな沖縄に、毎月ご縁があって行く羽目になった。

行くたびに、何か心の中でわだかまりを感じていた。

社長の奥様であった私、と本来の何もない私とのせめぎ合い。

変なプライドが私をいつも苦しませていた。

私は一体、どっちなの?とも思っていた。

どっちもこっちも離婚しちまったんだから、決まっているであろうに、

くよくよくよくよ考えていた。

離婚を切り出し、突っ切っていた私なのに、結局、そこに囚われていたのだろう。

お金があるとは、どういうことか、よくよく考える必要があったのかもしれない。

私が人生において、見てきた金持ちというものは、悲惨な精神状態に置かれている人ばかりだった。

私の叔母がそうであった。

都内でも一等地の大地主と結婚をしたものの、旦那の浮気や、相続の問題、家族の問題に苛まれて、結局癌で亡くなってしまった。

私がその叔母が大好きであったし、聡明な彼女を尊敬していた。

でも、その有様を見ていたからこそ、金持ちはごめんだと思っていた。

しかし、たまたま私が知らずに結婚した相手も、実は大地主の息子だった。

民法を知っていれば、誰でも理解できるとは思うのだが、例えば、資産家に嫁いだとする。

そこで、私にその資産が入ってくるのは、両親が死んで、かつ、夫が死んだ時である。

ということは、結局、資産家に嫁いだところで、私にはなんのメリットもないのだ。

私の場合は歳も近かったから。

それを理解して嫁いだことは理解してもらえなかった。

いつもすごく警戒されていた。

というか、そのご両親が民法を知らなかったのかもしれない疑惑もある。笑

金持ちはごめんだと思っている私が、嫁いだ先が、大地主というミステイク。

結局、離婚しちまったけれど、それはそれで良かったと思っている。

子供ができなくて良かった。

 

ということで、そういう感情を未完了にしたまま、毎月沖縄に行っていた私。

行くたびにやはり、いろいろな感情との戦いになる。

私は離婚して良かったのか?

離婚しなければ、もっと良いホテルに泊まれたのではないか?

とか。

そんなくだらないことをいちいち思い出しては、ナーバスになっていた。

 

つまるところ、私は、離婚後1年半も経とうとしているのに、過去の栄光にすがっていたのだということである。

情けない。

でも、その考えを手放すことも、怖くてできなかった。

何にもない私。

そこに、何の価値があろうか。

 

それを払拭できたのが今回の瞑想のワークであった。

瞑想というもの

私は、巷で噂になっている瞑想などというものに一切興味を抱いてはいなかった。

というよりも、瞑想なるものに挑戦しようとしたところで、眠ってしまうか、邪念だらけでにっちもさっちもいかないという現象が起こり、私には縁がないもの、という認識に至っていたからである。

 

いろいろな本が出版されている。

瞑想の効果、とか、瞑想による云々・・・などなど。

確かに、睡眠前に瞑想をするとよりよく眠れることは実証済みであったが、それ以外の効能というものには興味がなかった。だって寝てしまうもの。

 

ちなみに、ヘミシンクといういかにもアメリカらしいやり方の方法があるけれども、いつもいつも例外なくお眠りしてしまう私としては、変性意識ってなんやねんと思っていた。

 

そんな私が何故か、沖縄で行われる瞑想のワークショップ(3日間)に参加することとなった。

しかも、この春分の時期に。ちょうど3日目が春分であった。

 

だんだん私のブログは、スピリチュアル的な感じになってきているとは思うけれど、精神的に問題があったり、何か人間というものに問題意識がある人は結局ここに行き着くのだと思っている。

 

というよりも、私の持論なのなけれど、心理学、数学、物理学、哲学、その他もろもろは、結局そこに行き着くのだと思っていて、結局「それ」を解明したいがために、入り口は違うけれども、同じところを目指しているように思っている。

 

クオークだって、数式だって、結局「それ」を人間の現在の脳みそで理解できる物質的な形に表現したいだけなんじゃないかと。

 

「それ」ってのは、曖昧な観念なので、みなさんに表現はお任せいたします。

ある人は、愛と言うし、ある人は、神と言う、そういう曖昧模糊とした観念なのだと思っている。あ、クオーク然り、ね。

あの観測した時に登場しちゃう辺り、ものすごくそういう感じがする。

物質か、物質じゃないか、人間が見た時にしか決定しないあたり、もう、そうでしかないよね〜状態。笑

そう考えると、人間というのは、ある意味フィルターであって、それを観測するために高機能な何かを搭載してるんじゃないかとも思ってしまう。

人間という存在のために作られたかどうかは定かではないけれども、その観測される存在は、人間という存在をある程度視野に入れて設計されていたのではないかと。

真実は神のみぞ知る、だけれどもね。

 

ということで、私は何故かその瞑想のワークに参加した。

 

そこで得たこと、それはかけがいのない経験であったし、かけがいのない気づきであったし、かけがいのない心理であった。

かけがいのない、って言葉よく使われているけど、これって、「掛け買い」から来たのね。変換していて気がついた。なんという商人的な言葉。笑

それか、言霊として「かけがい」があったのか?

私には知りようもないけれど。語感が好きね。

 

正直、瞑想なんてしたって無駄でしょ〜くらいで参加したのだけれど。

 

瞑想もそうだけれど、気づきという観点で考えると、素晴らしい体験だった。

 

人は気付かなければ、気付かない。

 

日本語的にはかなり崩壊しているけれど、今の私の気持ちを言い表すのであれば、これがぴったり。

 

分かっているけれど、できない

という状態は、本当は、気づいていないということなのだということも理解した。

そういう状態にある時、人は本当は分かってはいないのだ、と。

 

わかる、という言葉の定義が問題になってきそうだけれど・・・

左脳で、文章として理解出来るのと、腑に落ちる、というのは違うという表現ならわかりやすいかな、と。

 

人は、腑に落ちてこそ、実生活で活かしていけるのだと思った。

 

だから、本をいかに読もうとも、勉強しようとも、それが実生活で行動に移されなければ、なんの意味もないということ。

 

こればかりやっていると、「分かっちゃいるんだけど」現象が起きる。

私がそうだった。

あなたの言っていることはわかる。(これ以上言わんでもいいわ)

となる。

でも、実生活で生かされていないからまた同じことが起こり、同じことを指摘される。

そして、

「分かってます」って答えたくなる。又は、心の中で思う。

でも、それを指摘する方は、改善されていない行動を見ているから、

(こいつ、ホンマ口だけやなあ)となる。

 

あ、これは私のことだけれど。笑

 

でも、不思議と腑に落ちると、行動や言動が私の知らないうちに変わっていて、

「あ、変わったね」

とか、「ようやく分かったんだね」とか言われる。

 

腑に落ちるって、とっても大事なのだなあと感じた。

 

でも、人間だからさ、腑に落ちるまで、意味わからないんだよね。

私がずーっとそうだった。

 

でも、気付けて良かった。

今、ようやくそう思えるようになってきた。

境界性人格障害について〜ここは私の居場所じゃない〜

この本ね。

 

少しづつ思い出し初めてきた。

この本は大学時代に、付き合っていた男性が古本好きで付いていった古本屋で購入したものであった。

題名が、私の心情にぴったりだったから手にとって、結局中を見ないまま購入したのであった。

 

たった今、この本を読み終わった。

思うことは、この本は、今日まで私の本棚に存在する理由があって、なおかつ、このタイミングで手にとって読む必要があったということ。

去年でも、一昨年でも、タイミングが違えば、このような感情にはならなかったし、ここまでこの本を理解することもなかったということ。

 

これは、レイチェルという主人公が境界性人格障害と診断され、治癒するまでの4年間が記されている本である。

そして、彼女が幼い子供から大人の女性へとその4年間で成長していく物語でもある。

 

私は、実質4日をかけて読み終えたのであるが、4日間、レイチェルと一緒に成長してきた気がする。

 

そして、その4日間の間に、噂の春分を迎え、新世紀の元旦を迎え、私は沖縄で瞑想のワークに参加していたというこの共時性。ここがポイントなのである。

 

私は、レイチェルが4年間かかったことを、4日間で体験できたように思う。

 

それは、私が優れているとか、そこまでの病気じゃなかったとかではなく、ただただタイミングの問題なのだと私は思っている。

 

これが、1週間ずれても、2日ずれても、こうはならなかったはずだ。

 

私は、4日間かけて、大人になったのだと思っている。

 

未だに、未完了な問題を留めているかもしれない。

それでも、この成長は何にも代えがたい経験であったことは確かである。

境界性人格障害について

わたしが境界例(境界性人格障害)という言葉を聞いたのは大学2年生の時だった。

マックで本を読んでいた時、同じくらいの男性に話しかけられた。

というか、ほとんどナンパであった。

「君、可愛いね〜。何してるの?」

「本、読んでるの。(見ればわかるでしょ)」

という差し障りのない普通のナンパと同じ会話をしていた最中に、ふと、

「君って、境界例じゃない?」と言われたのだった。

境界例って言葉も初めて聞いたし、頭の中では、「キョウカイレイ」としか認識できず、漢字変換をすることができなかった。

聞き返すと、ううん、なんでもない。気にしないで。と言われた。

そんなこんなで、わたしはその時人生で初めて「境界例」という言葉に出会ったのであった。(その男ではなく、ね)

そいつとどうなったのかは、実はもう覚えていないのだけれど、そのシーンだけやたらと鮮明に覚えている。

そのあと、キョウカイレイを検索して、境界例(境界性人格障害)という言葉を知った。

そして、そのグーグル先生が教えてくれるサイトたちは、恐ろしいほどにわたしについての説明が書いてあるようにしか見えなかった。

 

ということを今日思い出した。

 

引越しを控えているわたしは、ダンシャリ(断捨離)に励んでいて、恐ろしいほど膨大な量の本棚に手を出した時に、奥から見つかった本が原因である。

 

その名も、「ここは私の居場所じゃない」

サブテーマとしては、「〜境界性人格障害からの回復〜」笑

 

いつ買ったのか、どこで買ったのか、はたまたなんでここにあるのかも不明というほどの忘れようだった。

まあ、家にある本の量を鑑みてみれば、それも仕方ないとも言える。

今回は、引越し屋さんの腰を慮って、本も断捨離するかという気になったというわけだった。

まず、引越しやさんからもらうダンボールの最小のサイズにしたって、すべて詰め込むと、彼らの腰がやられること間違い無しだからね。

 

ということで、興味津々で読んでみた。(読むのも初めて)

 

あなたは、わたしですか?

というくらい、わたしの感情について記されていた。

わたしと違うところは、わたしはもう、暴れることも他人に罵詈雑言を浴びせることも、しないというところだけ。

でも、きっと昔のわたしだったらやっていたであろう。

行動は違えども、心理構造がそっくりなのである。

 

わたしの特技は、サイキッカーよりも、IQ200の人間よりも(これまじで)、

他人の感情や表情が読み取れることである。

そして、相手にどう言ったら相手がどう行動するかのほとんどが予測がつく。

だからこそ、自分の周りにいる人間をコントロールしてきたようだ。

実は、自分が他人様をコントロールしているだなんて露ほどにも思っていなくて、この本を読んで、ああ、、、、と反省した次第である。

言ってみれば、自分をも欺いて、人をコントロールしてきたのである。

 

ということが、今日判明した。

目から鱗どころか、龍そのもの(というか魚か?)が出てきちまったかのような衝撃である。

それでも、思い当たる節はある。多分にある。笑

 

まだ読み始めだけれど、実はこの本がわたしを変える最後のチャンスなのではないかとも思っている。

 

いつまでも、他人をコントロールしてはいられない。

それでは、自分の成長にはならないし、いつか痛い目をみる。

そして、もう痛い目は多分にみている。笑

他人はコントロールできても、わたしに降りかかってくる事象はコントロールの対象外のようで、わたしはどこにいても、何をしていても、必ず事件にあって、人生において、痛い目をみ続けているのであった。

別に、被害者アピールをしたいわけではないのだけれど、やたらと事件が多いのは、わたしの根性のせいなのだということが、ようやく腑に落ちた。

自分をコントロールできないくせに、他人様をコントロールしている場合ではないのである。

 

そろそろ、春分。

3月20日までに、わたしは自分を変革しないと、もう人生詰むことがわかりきっているので、あと、数日、本気で取り組まなければいけないテーマだったりする。

 

そして、その鍵は、わたしがほとんど思い出せない幼少期にあると思っている。

 

 

擬態する蝶

好きという感情を奪われて、そもそもそのような感情がなかったということに気づかされて、どうやって人生に楽しみを見出していったらいいだろう。

人間を見て、人間を知り、人間を学んできた。

私は一体どちら様なのだろうか。

人間の体に生まれてきて、人間としての感情を持ち合わせてはいなかった。

感情というものは、他人から学んだ。というよりも、学習してきた。

彼らが、本当はどういう感情を持っているのか、私は知らない。

そうであろうと、憶測することしかできなかったから。

私の感情が、私の感情であるのか確信が持てない。

喜びとは何であろうか。幸せとは何であろうか。

学ぶ以外に湧き出てくる感情というものは一体どういうものなのであろうか。

私には、人間であると感じる時と、人間ではないと感じる時、そのどちらかしかないようだ。

擬態する蝶。

私は擬態することによって、人間たり得ると判断されている存在でしかないのかもしれない。

 

人の表情によって、感情を読み取れる。

人の声の質、トーン、音量によって感情を推し量れる。

人の動作によって、人の感情を憶測できる。

 

しかし、それは、私が人間であるという証明になるのだろうか。

 

人という形をした入れ物に入れられた、何か他の存在、エイリアンのようなものなのではないか。

 

この問いへの答えは、まだ出ていない。

それどころか、一生かかったって、答えなど見つからないのかもしれない。

もっと言えば、もともとその疑問への答えなど存在していないのかもしれない。

 

映画「おくりびと」

「おくりびと」
この映画を見ているとき、わたしは涙が止まらなくなった。
人々がいかにその職業を蔑もうとも、配偶者が蔑もうとも、そこに生きがいややりがいを見出す限り、それは天職なのだと。
それを思い出したのだ。
わたしは大学時代、人には言えないような仕事をしていた。
文字通り、人に言ったことはあまりないし、ここにも書きたくはない。
それでも、わたしはその仕事をしていたことを後悔したことは一度もない。
反省は何度もしたことはあるけれど。
そして、そのとき、わたしはこう思っていたはずだった。
「職業に貴賎なし」
そこには、需要があり、必要があるからこそ、その職業は存在するのだと。
誰に蔑まれようとわたしは気にしてはいなかったはずだ。
それなのに、そんなこともすっかり忘れていた。
知らぬ間に、人を地位や収入で選別するようになっていた。
前の仕事のせいかもしれない。
26歳で、こんな年収の女はわたしくらいなんじゃないかという変なおごりが知らぬ間にわたしの心を侵食していたのだ。
そして、自分たちで会社をやっているという変な自負もそれらをこじらせた。
夫がバカにしていたサラリーマンなるものを、わたしもバカにし出していたのだ。
それが、どうだ。
今のわたしは、サラリーマン(ウーマン?)にさえなれない、ただの臆病者に成り下がっているではないか。
わたしは怖かったのだ。
前の職業と比べられて、年収と比べられて、情けないと思われることを。
だからこそ、働くことも出来ずに、起業することも出来ずに、ただお金と時間とエネルギーを浪費することにこの1年半を費やしてきてしまったのだ。
これは、夫のせいなどはなかった。
わたしがわたしにそう思い込ませていただけだったのだ。
そして、比べるのは、実は周りの人間じゃないということも。
わたしがわたしを勝手に比べていたのだ。
ただそれだけの妄想にずっと取り憑かれていたのだと思った。
何にもなれない自分。誰にも認められない自分。
ずっとそれを恐れて、行動すること、1歩踏み出すことを避けていた。
本当は、誰もわたしのことなんてそんなに見ていないし、気にしてもいないだろうに。
ものすごい自意識過剰である。
だからこそ、誰に蔑まれようとも誠心誠意仕事に取り組んでいる主人公を見て、涙が止まらなくなったのだと思う。
何をしていても、どんな職業についていても、自分が自分を認めてあげれさえすれば、毎日はもっと楽しいものになるだろうし、充実した人生になるだろうに。
どうして、そんなことにも気づかなかったのだろう。
でも、もう大丈夫。
気づきがあれば、きっと人は変わっていけるから。
わたしはもう過去に執着することをやめる。
過去は、過去。
未来は、未来。
見えない未来を憂いていると、自分が今、ここから消え去ってしまう。
そして、毎日の色が薄くなっていく。
生きている実感が消えていく。
もう十分味わった。
だからもう、大丈夫。

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不可思議な感情と人生について

どうしても、なにに対してもまったくやる気が出ない。
自分に不安感以外の感情はない。
でも、それは、良く良く振り返って考えてみれば、年齢が2ケタになった時からだったような気がする。
今日、カウンセラーである先生に、それを指摘され、私は泣いた。
原因がまったくもはや分からな無くなっているからだ。
私の感情は一体どこに行ってしまったのだろう。
良く考えて見るように。と言われて私なりに考えて見た。
確かに昔は我ながらびっくりするほどに優秀だった。
小学生の時、計算をすべて終えた人から先生のところへ持っていくという算数の授業があった。
異常な速さで終えるたびに、先生は驚き、毎回毎回「カンニングしたのか」と聞いて来た。
よく考えればわかることだけど、計算を皆終えていないのに、カンニングをすることは不可能なはずだ。
それでも、私は傷ついた。
それからは、みんなが席を立ち始める気配をひたすらに待って、先生のところに持っていくようになった。
私は田舎で育ったので、塾もなければ、今でいう通信教育もなかった。
高校に入る前に、全国で一斉の模試のようなテストがあった。
私はそのテストに全教科とも全国で10位以内に入っていた。
そして、よく分からない業者が訪れ、勉強について脳の開発をしないかと営業をしてきた。
今でも覚えている。
でも、そこで父は言った。
「うちの娘はそんなんじゃないですから。」
というあの言葉。
あれは、おまじないだったのかもしれない。
それから、私は学校をサボるようになり、男の部屋に入り浸り始め、成績は坂を転がり落ちるかのように落ちていった。
あれは、もしかしたら反抗期のなかった私の唯一の仕返しだったのかもしれない。
でも、それが原因なのだろうか?
私はいつからこんなにやる気を失ってしまったのだろうか。
なにをしても変わらない、やるだけ無駄だと、いつから思い始めたのだろうか。
子供は、親のそんな一言だけで、そうも変わってしまうものなのだろうか。
私の感情はいったいどこに落としてしまったのだろう。
私は優秀だ、私には価値がある。
そう思えなくなったのはいったいいつからだったのだろう。
そこからは酷かった。
大学に入り、即引きこもりになり、その後はひたすらポンプ(注射器)で打ち回して、ポン中になった。
転落人生の代表例みたいな人生だった。
お金が無くなると、夜仕事をした。
キャバクラで、日払いのバイト。
いい男がいると、うっかりやってしまって、枕だと言われたく無いので、店を辞める。
それの繰り返しだった。
人生って本当に不思議である。
何が今後の人生を左右するかだなんて分からないまま、いろいろな現象にもみくちゃにされて、それでも、生きていかなければならない。
人生って本当に残酷だと思う。
そして、一番残酷なのは、わたしなのだと思う。
わたしがわたしにしてきたこと…実はそれが一番残酷なことだったろう。f:id:xphantasmagoriax:20170120213136j:image