Way to be HAPPY

Life is a Journey

アガスティアの葉 1

ある日の仕事帰り、いつものようにメールをチェックしていると、私の指紋と合致するアガスティアの葉の束が見つかったと連絡があった。
指紋を送ったは良いものの、本当に私の指紋に合致する葉があるだなんて思ってもみなかった私は正直驚きを隠せなかった。
ちょうど大阪に彼から招待されている当日にインドから来たアガスティアの葉の読み手が大阪に来日するという。
このベストなタイミングにも驚いた。
どうやら本当にアガスティアの葉を読みに行くこととなっているのだと感じた。
セッションの時間帯も彼の仕事が終わる前の15時からと、急に時間が早まり、間に合うこととなった。そして、たまたま彼が取ってくれて居た新幹線の新大阪駅へと到着時刻も、14時30分と、15時に指定された場所に行くにはぴったりの時間であった。
私には、行くという選択肢しか無かった。
本当にこころからその日を待ちわびて居た。

そして、当日になった。
指定されたマンションの一室に到着すると、美しい女性がドアを開けて「こんにちは〜お待ちしておりました。」と部屋へと通してくれた。
そこでは、私の前の方のセッションがまだ続いており、もう少し待って居てください、とのことだった。
優しい顔をしたインド人の読み手、そして、通訳の日本語のやたらと上手いインド人が居た。
前の方は、人生を読んでもらっている途中で、50歳以降の運命については、また12年後にここへ聞きに来るようにと言われていた。
そういうことはどうやら珍しいらしい。普通は亡くなる年齢までの人生をアガスティアの葉は教えてくれるらしい。
が、一度料金を頂いているので、次回の12年後は無料で良いという。
私はそれを聞いて居て、アガスティアの葉ってなんて親切で優しいのだろかと感心してしまった。そして、同時にこのインドからきた方々はお金儲けをしに来ているわけではないことも悟った。
前の女性が帰って行くと、今度は私の番である。
心臓のドキドキが止まらなかった。
部屋の温度に関わらず、私はひたすらに冷や汗をかいていた。
ここで私は自分の人生の全貌を知ることが出来るのか。
また、自分の死期までわかってしまうのか。
そもそも、今回用意されたアガスティアの葉の束の中に私の葉は存在するだろうか?
たまたま指紋が似ていただけではないのか?
そういう疑問もあり、私はだんだん怖くなっていた。
ノコノコ大阪まで来て、私は一体何をしに来たのだろうか?という気持ちが強くなっていた。
そして、とうとう私の葉を探す作業が始まった。

蒙古ひだについて

夜の仕事を始めてからやたらと目が綺麗だねと褒められるようになった。

目が綺麗ってどういうこと?

と思っていたけれど、先日理解した。

私には日本人の8割が持つといわれる蒙古ひだがなかったらしい。

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眼球も九州の方々に多いと言われる薄い色の光彩が使用されているし。

だからとて、何がいいかは分からないけど、まあ褒められるということは良いことなのかな。

目頭にゴミが溜まるのはご愛嬌? 

 

アドバイスとは

人は誰かの相談に乗るとき、すべて自分の経験や知りうる知識の中で答える。
それはそうで、自分の経験にないことや知らないことに答えられるはずはない。
だがしかし、だ。その中で答えるといっても何かが違う、そう思うことが最近とても多い。
一体何が違うと私に感じさせるのか、それを考えていた。
それは、答え方、である。アドバイスの仕方と言ってもいい。
なぜ人は、人にアドバイスをするとき、高圧的または断定的になりやすいのか。
そして、なぜ人は、自分の過去をそこまでアピールしたがるのか。
相談をしているのは私なのに、何故か相手の過去の辛かったエピソードに相づちを打つ羽目になるのか。謎である。謎すぎる。そして、うんざりする。
例えば、私が仕事のことで悩んでいるとする。
そうすると、知らない間に自分はこれだけ大変だった!というアピールが始まる。
まあ、(だからあんたもそれぐらい出来るでしょ)ということなのだろうけど。
根本部分は一緒かもしれないけれど、大学にも行けず働くしかなかったことを以て、私は大変だった!あなたよりもずっと大変だったのよ!と言われても、なんのアドバイスにもなっていない。
じゃあ大学にさえ行っていれば大変じゃなかったとでもいうのであろうか?
大学に行こうが、行けずに働こうが、結局は同じなのだということを忘れている。
人間である限り、何をしていても悩むし、考えて行動していかなければならない。
それは一緒。誰が良いでも悪いでもない。
それと同じで、誰が優れているとか、誰がより楽な人生だった、とかもないのだと思う。
裕福な家庭で、親の理想を押し付けられて朝から晩まで塾に行き、良い大学に行ったからって、それは幸せなことと言えるだろうか?
また、親が貧乏で親の借金を肩代わりし、働いて来た人が不幸であったと単純にまとめられるであろうか?
親が金持ちでも、勉強の結果でしか判断されず、親の期待を押し付けられて、愛情を知らずにプレッシャーだけを押し付けられて生きてきたかもしれないじゃない。
親が貧乏で借金があっても、親の愛情をしっかりと受け取って、心は幸せで生きてきたかもしれないじゃない。
表面の事象だけ捉えて考えたってそんなの本質じゃない。

アドバイスとは、自分の人生を意見に乗せて相手に押し付ける行為ではない。

八つ当たりを否定する馬鹿

叱るという行為を履き違えている人が非常に多い。

 

叱る、それは、自分の為でなく、相手の為にする行為だったはずである。

 

注意するのも同じ。

 

自分のエゴを押し付けるのは叱るではなく、ただのストレス発散である。

 

本当の意味での、叱る、は後々になって分かる。

 

本人が成長していたら、それはキチンと叱れていたということであり、本人が居なくなっていたら、エゴでやつあたりしていただけだったということである。

 

お互い人間でしかないので、叱られる方も相手が本気で自分を思ってるのかどうか余裕で分かっちまうのですよ。

 

人がすぐ辞めていくような会社の経営者はそこらへんをキチンと理解して経営したらいいと思う。

 

結局は人情でしかないの。

売り上げを求めるあまりに働いてくれている人たちの感情を理解できないなんて、本末顛倒でしょう。

 

お客は変わる。

でも社員は変わらない。

それが本当の良い組織というものではないでしょうか?

 

働き手が辞めて、働き手を悪者にして済ます経営者は粋じゃないねえ。

食物アレルギー検査の結果(過食症の意外な原因シリーズ)

ご無沙汰しております。

 

食物アレルギーいついて記事を書き、

xphantasmagoriax.hateblo.jp

そっと放置していた私。

 

コメント欄にコメント頂いた方、コメントありがとうございました。

そして、大変長らくお待たせいたしました。

 

結果自体は、一ヶ月後くらいに届き、

(あ、なるほどね〜)と勝手に納得し、そのままになっていたのでありました。

 

これが、わたしの結果です!!

 

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卵白・卵黄、牛乳、パイナップル、しょうが、もやし、全粒小麦、さとうきび、昆布に、アレルギー反応をしている模様。

 

正直、この結果を見たとき、ほえ?となったのは言うまでもない。

卵白・卵黄については、卵大好き人間の私としてはむしろ悲しい。

幼い頃、確かに生卵を食べると(ロッキーみたく飲んでたわけじゃないよ)、関節部分の皮膚が痒くなったことはあった。

だがしかし、大人になってから食べても平気になっていた。

のだが、未だにアレルギーだったとは。

 

全粒小麦なんて、マクロビに一時期はまっていたとき、洒落た食物だと勘違いし、食いまくっていたけれど、全く気づかなかった。

 

さとうきびなんて、いつ食べるんだ?

昆布は、ダシがせいぜいだし。

 

パイナップルは大好物だったから、ちょっとショックだった。

 

確かに、生姜については、大好き過ぎて、寿司屋に行く度に、寿司と同量ほどのガリを寿司屋のおっちゃんにねだっては食いまくっていたが、、、

そういや、毎回寿司を食った夜中に吐き気がするのは生姜のせいだったのか!!

ということに今気づく。

生物に当たったのではなく、生姜にくらっていたのかも。

 

それにしても、その吐き気は過食嘔吐の吐き気ではなく、(というかそもそも過食嘔吐するとき吐き気はない。自分で吐き気をわざわざ起こすのだからね)

ガチの「やばいもん体に取り込んじゃったときの現象」そのものであった。

 

私は、この検査によって、アレルギー反応を示す食物を特定し、

過食衝動を抑えよう!というスタンスで何万も大枚叩いて検査を受けたのであったが、

アレルギー反応を示す食べ物を一切摂取していない現在、

 

ガンガン過食嘔吐しています!!!!

 

期待して結果を待っていただいていた方、本当にすみません。

 

でも、私も過食嘔吐を止められない方の仲間です。

 

まだまだ、解決策を模索しております。

 

一緒に頑張りましょう・・・!!

 

もうすぐ13周年を迎えてしまいますからね、本当に内臓ボロボロです。

 

この前、ふと私が3年以上続けられたものってなんだろう?

と考えてみたのですが、仕事も3年ギリギリで足りず、

運動も、趣味も、1年足らずですぐ飽きる私。

3年以上か、13年も続けていたもの、それは過食嘔吐だけでした、はい。

 

過食嘔吐は、甘えだとかなんとか言われますが、

私は決して甘えでもなんでもないと思っています。

 

だって、私より甘えた奴が、過食嘔吐もせずにのうのうとアホ面晒して生きておりますからね〜。

 

 

まあ、とにかく外野には言わせておけばよろしいと思っております。

だって、外野の奴らは私の人生に誰一人として責任など取ってはくれないものね。

 

幼少期の傷5

周りからは、私は父にとても愛されていたと言われていた。

目の中に入れても痛くない子だと父は言っていたと。

それは、真実かもしれない。

それでも、幼少期の私の真実ではなかったのだ。

 

私がバーベキューで鉄板に手を突っ込み、火傷して大泣きしている時、

私が、父と遊んでいて、テーブルに顔を打ち付け、歯で唇を貫通した時、

私が、キャンプで蜂に刺されて大泣きした時、

果たして、父は何をしてくれただろう?

 

何もしなかったのだ。

ただ、不機嫌になり、怒って、母親に「泣き止ませろ」と言っていた。

 

それを、29歳になって思い出した。

 

何かあった時、泣きじゃくっていた時、そばに居てくれたのは母親だけだったのだ。

 

私はそのことさえ記憶から抹消していた。

 

直接、父に手を上げられたことはおそらく一度もないだろう。

 

それでも、当時の私は、どうして私を心配してくれないの?どうして怒っているの?と思っていたのだった。

 

正直、それがずっと尾を引いているのだと思う。

 

そして、その父の言動に対して、私は愛されてはいないのだと確信したのだと思う。

 

私はずっと、父を求めてきたのだ。

 

泣いている私をよしよしと慰めて欲しかったのだ。

 

鉄板に手を突っ込んだのも、触るなと言われて蜂に手を出したのも、

本当は父にかまって欲しかったからだ。

私が傷ついて泣けば、きっと父は助けてくれるだろう、と私は計算したのだ。

それでも、そこで失敗してしまった。

だからこそ、愛されていないと感じた。

そういうことだったのだろう。

 

私は常に父の愛情を欲し、父の愛情を試してきたのだ。

 

本当は、だからとて、父が私を愛していなかったということにはならないということも分かっている。

 

父の父(私の祖父)は、戦時中のPTSD(今ではそう病名があるが当時はなかった)で、お酒を飲むたびに暴れ、父に暴力を振るったそうだ。

 

心理学のセオリーでは、それは実は、子供に対して受け継がれていくことが非常に多い、とされている。

 

それでも、父は、お酒が好きなのにも関わらず、暴れることも、殴ることも一切なかった。

 

本当は父は、そこで家庭内暴力という悲しい連鎖を終わらせてくれていたのだ。

ということが、私が大人になってから理解した。

 

自分の中の抑えきれない感情との戦いだったのだろうと思う。

 

だからこそ、あれが父の最大限の愛情を示してくれていたのだと思える。

 

でも、幼少期の私には理解する術もなく、ただただ愛情に飢えてしまっていたのだと思う。

 

どちらも、悪いとは思わない。

そして、どちらも被害者であったのだ。

 

そう気づけた今なら、父を許せる。

 

父は最大限私を愛してくれたのだと思える。

 

あとは、私がこの未消化であった父への感情を、どうこれからの人生で消化していくかにかかっている。

 

そして、これが消化できるまで、私は誰も愛せないであろうと思う。

子供など産めないし、愛情を持って育てられる自信がない。

だからこそ、神様は猶予を与えてくれたのだと思っている。

 

あとは私の問題である。

幼少期の傷4

私は中学生の時から、すごく早熟な子だった。

初体験は中学2年生。誰よりも早く初体験というものを終わらせたかった。

オナニーは驚くべからず、おそらく幼稚園か、小学校1年生くらいからしていた。

膀胱炎で病院に行った時に、なぜか股を弄られたこと、それがトリガーになったという記憶を思い出した。

今思えば、父親の愛情に飢えていたからこそ、付き合う相手は、10歳〜20歳以上の男性が多かった。

ずっと父親になってくれる人を探していたのだと思う。

そして、夢では、何故か父親とセックスをする夢をよく見ていた。

例の「ここは私の居場所じゃない」という本の中で、先生が言っていた言葉で納得がいったのだが、女の子は幼少期に父親に性的な欲求を感じるものなのだそうだ。

それは正常な欲求で、それが父親の愛情によって幼少期に満たされれば、問題なく育っていくのだそう。

私はおそらく、その本の主人公と同じでその欲求が満たされなかったのだろう。

成人してからも、そのような性的な夢をよく見ていた。

そして、汗びっしょりで朝目覚めては、なんて自分は変なんだろうと激しい罪悪感にかられたものだった。

その罪悪感を払拭するかのように、または、助長させるかのように、父親の歳の方に近い男性を求めては、父親代わりになってくれることを心底望んでいたのかもしれない。

それでも、その目論見はことごとく失敗し、いつも虚無感がつきまとっていた。

本当の父親が父親になれないのに、どうして他人が私の父親になれようか、ということである。

そして、その怪しいカラクリに気づいたのが、沖縄での瞑想と、その本だったのだ。

私は常に安心感というものを知らず、だからこそ、その安心感を求め、失敗し、途方にくれてきたのだ。

安心感の代わりに、ずっと私についてきてくれたのは、不安感だった。

何をしていても不安なのだ。

お金があっても、何一つ不自由しない身分でも、お金がなくて、借金まみれになっても、不安。

この不安感と一生離れられないのだと、途中でもはやわかりきっていた。

早く死にたいと思っていた。または、生まれなければよかったと思っていた。

生まれてしまったからこそ、このような苦悩があるのだと。

自殺はできない。何故ならば、生きるのと同様に「死」というものを恐れていたから。

いや、正しくは、「無」というものを非常に恐れていた。

幼い頃からその感覚は私につきまとっていて、夜寝る前に「無」について考えるたびに、発作のようになり、パニック状態に陥った。

そのパニック状態になると、自分で奇声をあげて、自分はまだ生きている、存在しているのだという確認をするまで、どうにもならなかった。

「無」それは一体なんなのだろうと常に考えてきたし、「死」よりも恐れていた概念であった。

実は、それも、例の本の主人公と一緒であった。

しかも、日本人なら輪廻転生という概念があるからそのような概念があってもいいかもしれないのだけれど、その本の主人公は敬虔なクリスチャンであった。

ということは、輪廻転生という考えもないし、自分の生まれる前も死んだ後(天国を除く)もないという考えが普通であるにも関わらず、彼女は自分の生まれる前の「無」に発作を起こしていたのだった。

一体、何が共通しているのだろう、と不思議に思ってしまった。

間違いなく感受性は激しく敏感であろうと思う。

それでも、生まれた国や宗教が全く違うのに、同じものを恐れていること、そこに私は興味を持っている。

そして、その恐怖が、実は境界性人格障害の根底にあるのではないかとも思っている。

スピリチュアルな話になってしまうのだけれど、それ以外で理由付けができなかった。

同じ、輪廻転生の概念がある日本人でさえ、私と同じように「無」を恐れる人を見たことはなかった。

母親であっても、理解しなかった概念が「無」である。

これは、血筋でもなく、国民性でもなく、宗教でもなく、違うところに根本の原因があるのではないだろうかと思うに至ったのである。

「無」とは一体何なのか。

私はまだ答えを出せずにいる。

幼少期の傷3

そして、困ったことに、そこそこ可愛いルックスだった為に、私の要望は周りの大人達によってある程度満たされ、大人になってからは、その役割を寄ってくる男性陣が引き受け、なんとなく生きてこれてしまったのだった。

目も当てられないブスだったら、もうちょっと早く気づけていたのかもしれないのに。

もう、この歳になるまで気づかなかったからには、かなりの重症である。

しかし、計算高いからか、なんなのか、それはほんの親しい人にしか発揮されない癖なので、母親か、恋人(または一発以上かました相手)かにしか気づかれない。

それ以外の人には、本当にいい子に見えるように計算して生きてきてしまったのだ。

その為、ずっと心の内側になにかくすぶっている爆弾のようなものを抱えて生きてきたのだと思う。

ただの知人や友達や兄弟・親戚には発揮できないからこそ、不平不満というか、欲求不満が日々募っていく。

その発散先が、母親か、成人してからは付き合っている相手だったのだ。

彼らに関しては、もう被害者の会を結成されても仕方のないくらい悪事を働いてきたと思う。

それでも、その悪癖は、最後の夫で終了した。

もう、すべてに諦めることに慣れきっていた。

誰も私のことなんて理解できやしない、と結婚生活の中盤で諦めた。

そして、それが故に、私の摂食障害は日々悪化していっただのだった。

感情のはけ口を求めているにもかかわらず、感情のはけ口が見いだせない。

だから、私はそれを過食嘔吐することによって満たしていたのかもしれない。

相手を責めることをしなくなってからは、ずっとその責める相手を自分自信に向けてきたのだった。

誰も分かってくれない。

誰も私を愛してはくれない。

誰も私を守ってはくれない。

そうやって、いつの日にか私は拗ねて、捻くれだしたのだと思う。

そうやって出来上がったのが、今の私の人格だった。

幼少期の傷2

今までは、ずっとカウンセリングで言われた通り、母親の愛情不足が原因だとばかり思っていた。

でも、実際は、そうではなく、おそらく父親の愛情不足が尾を引いているのではないかと思っている。

この情報のソースは、心理学だったかはたまたスピリチュアル的な方面によるものだったかは、不確かであるが、父親の愛情が不足していると、うまく受け取れない子になるという。

ちなみに、母親の愛情が不足していると、うまく与えられない子になるのだという。

私の場合は、お金でも時間でも、体でも求められたらついつい与えてしまうタイプであった。そこにも、おそらく問題は隠れているのだけれど、常に誰かに何かを与えることに喜びを見出して生きてきた。自分の存在意義が不確かだったからこそ、それをすることで、自分の存在意義を見出してきたところがあるのだと思う。

そして、もっと深刻な問題は、「受け取ること」であった。

なぜか、我が家では、誰かにおこづかいをもらったとき、一度はお断りするという習慣があった。そうしなさいと求められたことはなかったが、両親を見ていて自然と学んだのだと思う。人に何かをもらうときは1度断る癖がついていた。

そこから波及しているのか、なんなのか、例えば、「かわいいね」「綺麗だね」と言われても、素直に受け取れず、喜べない自分がいた。

デートで何を食べたい?と聞かれても、何も要求できない自分がいた。

誰かにプレゼントをもらっても、受け取れない自分がいた。

本当に困ったときでも、誰かにお願いすることができない自分がいた。

例えそれが自分を窮地に貶めることであっても、絶対に自分からお願いすることができなかった。

そして、同時に、お願いすることや、求めることができないからこそ、自分の欲求を果たす為に、人をコントロールするスキルがあがっていった。

相手に自分の欲求を、うまく提案させることに非常に長けていたのだ。

例えば、何か欲しいときや、何かして欲しいとき、行動や表情や直接的でない言動で、相手に提案させてきた。

「⚪︎⚪︎欲しいの?」とか、「⚪︎⚪︎しようか?」とかいった具合に。

そして、そのスキルがある為に、あまり困ったことにはならなかった。

だがしかし、結局その困ったことにならなかった生き方が、結局、今困ったことを生み出していたのだということに最近気づいたのだ。

100%相手をコントロールすることは、私を以てしても不可能なことである。

だからこそ、私の要望と相手の提案や行動に差異が生じる。

そして、それが私の欲求不満の根本の原因となるのだった。

まさに、身から出た錆である。

だがしかし、私はそれ以外に生き方を知らなかったのだ。

自分から誰かに要求するなんて、してはいけないことなのだとずっと思って生きてきたのだから。

幼少期の傷

思春期から成人してからの精神的な問題は幼少期に何かしらの問題があったという考えが心理学ではセオリーである。

 

私は、本当に今の今まで、何も問題のない幸せな家庭に育ったはずだと信じて疑わなかった。むしろ、幼少期に何かしらの問題があったと私が考えるということに罪の意識を感じていた。だからこそ、どこのカウンセリングに行こうが、精神科の先生に問われようが、「全く何も問題はありませんでした」と答えてきた。

むしろ、そこに着眼点を置かれることに憤ってさえいた。心理学だなんてたいそうな学問のように聞こえるけれど、結局犯人探ししているだけじゃないの、と思っていた。

 

本当は、そう思いたかっただけだったのだ。

 

幼少期の心理的なアプローチに関する質問に過剰反応したり、何もなかったという主張をすることに固執すること自体が問題であることに全く気付いていなかったのだった。

幼少期の記憶がほとんど抜け落ちているにも関わらず、そのような主張をし続けていることがすでに問題はそこにあるということを示していたはずなのに。

 

私は、何不自由なく中流の幸せな家庭で、両親に愛されて育った。

だからこそ、私が現状で摂食障害や、感情に関する問題を抱えていることは、罪である。という思想が私を牛耳ってきたのだと思う。

 

本当は、そんなことはなかったのだ。

 

最近になって、様々な幼少期のエピソードを思い出し始めている。

何がトリガーになったのかは、正直私もわからない。

瞑想だったのか、その瞑想ワークショップの講師の方の愛情に触れたことにより触発されたのかは、わからない。

 

客観的に見れば、幸せな家庭で、年の離れた末っ子で、一番可愛がられた。(と言われている)

でも、幼少期の私の感情はそうではなかったのだ。

そう思わなければいけない、と思って生きて来た結果がこれである。

 

だからとて、両親の私への愛情が足りなかったとか、虐待をされた、というのでもない。

幼少期に私は、愛に対して欲求不満を感じていた、ということなのだ。

両親が最大限の愛情を注いでくれたのかもしれない。

それでも、私の感じた愛情の量は私の求める愛情よりも少なかったということ。

誰が悪いというのではなく、事実がそうであったということなのだった。

 

私は、確かに、愛情をずっと欲していた。

最近思い出した記憶だけれど、私は2階の部屋で寝起きしていて、毎晩寝た振りをしては、階段のところで、両親に見えないところに位置しては両親の会話を盗み聞きしていたのだ。それは何を意味するかというと、私のことを愛しているのか、私の悪口を影で言われていないかの確認作業であった。また、私の今日の行動は正しかったのかどうかの確認も併せてしていたのだと思う。

それは、幼稚園の時から始まった習慣だったので、重度といえば重度である。

たまに、見つかっては、夢遊病だと言われたことも最近思い出した。

私は、寝てなどいなかったのだ。夢遊病ではなく、寝たふりをしては、両親の会話を偵察していたのであった。

 

そう考えると、今の私の問題の根は本当はかなり深いように思える。

もうすぐ29歳である。アラサーというものになっているのにも関わらず、自己の未消化の感情と日々戦っているのである。

 

私の中にはものごごろついた時から、大人の私と、子供の私が同居していた。

ものすごく大人びた発言をしたり、世の中をこんなもんかと冷めた目で見ている反面、泣きじゃくりたくなったり、癇癪をおこしたくなったりしていた自分がいた。

誰かに100パーセントべったりと甘えたい欲求が常にあった。

それでも、その甘えるということをしたことがなかったので、一体どうしたらいいのかわからずに生きてきた。

自分のことを愛してくれているかどうかの尺度を、甘えることができないために、わがままを言いまくり、相手を傷つけるような言動をし、それでもそばに居てくれるかどうかで、ずっと推し量って生きてきたのだ。

母親にそうしてきた。そして、付き合った相手にそうしてきた。

夫にももしかしたら、そうしてきたのかもしれない。

 

それが、私の人生における人間関係をややこしくしてきたのだろうと今ではわかる。

でも、少し前までは、全くわからずに、ただただ人を傷つけ、自分への愛情を確認して生きてきてしまったのだ。