Way to be HAPPY

Life is a Journey

ボディトーク3

そして、彼女はおもむろに私の腸の部分を触った。

その後に膵臓の部分も触った。

 

「内臓がもう限界レベルに疲れていますね。

特に膵臓。ちょっと両方の肋骨を触ってみてください。

左側の膵臓がある肋骨の部分が盛り上がっているのがわかりますか?

膵臓の使いすぎで膵臓が腫れてしまって、そして、肋骨は股関節に影響します。

左の肋骨が盛り上がることによって、右の股関節が下がる(寝てる状態で)、

その右の股関節をかばうように歩く為に、左の股関節に支障が出るのです。」

 

3分でそこまで理解し、語ってくれた彼女に対してかなり驚きを隠せなかった。

確かに、股関節に問題があるとは言ったものの、それが左とは伝えていなかったからだ。

そして、膵臓の疲れに関しては、温熱療法(別の記事で紹介します)に行くたびに指摘されていたことであった。

毎日酒をかっくらっているので、てっきり肝臓が疲れていると言われるのかとばかり思っていた私は、衝撃を受けた。

(この人、、、一体何者!?)と。

 

そして、私の内臓は、例えてみれば、地盤沈下のような状態で、少しづつ少しずつ沈下している状態なのだそう。

普通の家屋で例えれば、家屋の地盤沈下が起こると、最初はなんとなーく家傾いてるんじゃね?と感じるレベルであるが、沈下していくうちに、家は最終的に崩壊する、、、という流れなのだそうだ。

つまり、家とは、私自身のこと。

このまま行けば、小康状態を保っている身体が崩壊してしまうということ。

なので、まずは、内臓から健康状態に戻して行きましょうとのことであった。

 

現在は、身体と心(脳)が分断されている状態で、脳はまったくもってこの内臓さんのやばい状態には気づいていない状態なのだそう。

それを、脳に命令して、内臓を良くしてくれよ〜というメッセージを伝えることによって、ホルモン系が働き始めるのだと言う。

それを、まず腸から治していきましょう、とのことだった。

腸の部分を触り、頭の部分を触り、その命令を伝えるのだという。

そして、具体的には朝1杯の常温の水を飲むこと、それをしてくださいと言われた。

また、便秘とは言ったが、毎日下剤を使用していることは伝えていなかったのだが、それを見事に言い当てられ、下剤はしばらく使わないでください。と言われた。

下剤を使うということは、腸を大事に守ってくれている非常に需要な腸内細菌さんの住居に原爆を投下するようなものなのだそうだ。

すべて、下剤によって洗い流されて、私を健康にするための腸内細菌さんたちが見事、死んで流れていってしまっているのだそう。

ば、ばれたか・・・・!!という感じであった。

以前のブログでも取り上げた「マイキンソー」という腸内細菌の割合を調べる検査では、私は便秘症になるような細菌割合ではないと書かれていたことを思い出した。

ああ、すべては下剤のせいであったか、、、ということを思い知らされたのであった。

 

ちなみに、後日談となるが、下剤を飲まずに朝1〜2杯の水を飲んだその日は、実はちゃんとうんぴーを産むことができたのであった・・・

 

下剤って百害あって一利なしなのね。

そう納得した私なのであった。

ボディトーク2

都内のとある駅のセッションルームに向かう。

私のボディーは一体何を言ってくるのであろうと、少し不安、そして、少し楽しみな気持ちで向かった。

 

普通の清潔そうな40代の女性が、私を招き入れてくれた。

スピリチュアル業界によくいるような、満面の胡散臭い笑みなどは全くなく、かなりフラットな状態の方だったので、ホッとした。

よく居るのよね、こっちが緊張してしまうほどの胡散臭い笑顔を良かれと思って振りまいてくる人って。

ああいうのは、本当に怖い。

こちらを支配するような、そういう意図がかい間見えるからである。

まあ、スピに限らず、日常生活でも結構出会うので、要注意である。

 

簡単な問診票に記入後、少し話をしてからスタートした。

最初なので、ベッドに横になって行うとのこと。

リズム良く私の左手を持ったり、離したりしながら、何かを考えている様子。

 

そして、私の問題点1点目の過食嘔吐の原因について話してくれた。

(ちなみにここからは若干スピリチュアル的な話が含まれます)

 

うすうす気づいてはいたし、以前のブログにも書いていたことなのだが、

私は人の感情や発言の裏の意図、雰囲気を感じ取る癖がある。

それでも、それはきっと気のせいであろうと放っておいた。

臭いものに蓋、の理論で見てはいけなかったものを見てしまったような気持ちになるので、その感覚を丸無視するようになっていた。

彼女が言うには、そういうことをしているので、ノイズのようなものが頭の周りに渦巻いているとのことであった。

そして、もういっぱいいっぱいになっていると。

そういう他人の感情(エネルギー、ノイズ)を吸い込んでしまって、かつ、見ないようにしているもんだから、身体に溜め込んでしまっているとのことだった。

だからこそ、そのモヤモヤに対処するために、代償行為として過食嘔吐をしてしまっているのだと彼女は言った。

私は、稀に見る感覚の持ち主で、その感覚を仕事に使えるようにコントロールすることで、全てが180度変わるし、過食嘔吐も止まるであろうと言われた。

私は、会社をしていたので、確かにと思うところがあった。

やべえ客は一瞬で察知するという能力があったからである。

毎回最初に私が(こいつはやべえ)と思った相手はモンスターのような客であったということが後々判明するということが非常に多かった。

だからこそ、旦那には気持ち悪い奴だと思われていた節もある。

その能力の使い方を間違えていたせいで、今まで様々な大失敗をしてきた節もある。

 

人間が怖かった。ずっと怖かった。

よく、お前の方が怖いよとか冗談で言われるけど、

相手が嘘をついていること、虚勢を張っていること、本人も気づいていないけれど、言っていることと、思っていることが真逆なこと、、、それに気づいてしまうということは、非常に辛いことなのである。

本当に人間は余裕で嘘をつくものなんだなーとか。

よくそこまで人を裏切って平気なんだなーとか。

人間が怖いと思う、その素地となっていた。

そして、他人は私と同じ能力があるに違いないと思っていたし、だからこそ、発言と思考は一致させねば、とか、嘘は決してついてはならない、とか、人と接するたびに自分を常時監視しなければならなかった。

それはそれは非常に疲れることなのであった。

 

言われてみて、よくよく考えてみれば、私が過食嘔吐をするのは、必ず仕事帰りや、休みの日でも疲れる飲み会とか、そういうものの後であることが圧倒的に多かった。

人間に疲れたことへの反動だったのかもしれない。

 

相手が自分を見下していることがすぐに分かるから、相手の為に本当は出来ることも出来るとは言わず、相手の期待通りの行動をしてしまう癖があった。

逆も然りである。

相手が私を高く評価していた場合、それも分かるので、相手の期待通りに高評価の仕事や行動をする。

すべて相手の思考通りに演じていたのだろうな、と思う。

だって、どちらも対応できてしまうのだから。

出来るということは、出来ないということも出来るということなのだ。

 

だから、最終的に私をめっためたにバカにする人間も出てくるし、神のように崇め奉る人間も出てくる、それは、すべて私の行動が原因だったのだと気づいたのであった。

 

 

ボディトーク1

とある居酒屋で出会ったAさんより、この世に「ボディトーク」なるものがあるということで、大変興味が湧いた私だった。

 

ボディトークとはその名の通り、体は全て知っている→ということで、身体に聞いてみよう!的なスタンスのものなのだと言う。

頭で知覚していることより、身体が知っている情報の方が多いし、かつ、正確なのだと言う。

 

私は、知っての通り(?)、かれこれ過食嘔吐12周年を迎えた人間である。

過食嘔吐は日常の一部であり、もはや、私の一部と言っても過言ではないお付き合いをしてきた相手なのである。

 

そんな私は、そろそろやべえだろうな・・・となんとなーく感じていたので、ボディーにトークしてもらうことを決意したのであった。

 

最初のメールで、相談したい内容として書いたのは、下記4点であった。

・過食嘔吐12周年でそろそろ本気で止めたい

・便秘で困っている

・腰とお尻のコリがひどい。そして、股関節も歩くと軋む

・人間とのコミュニケーションが非常に辛い

 

こうやって書き出してみると、客観的に見て、結構な問題だらけの人間である。

 

そんな私がボディートークを受けてきたので、忘れないうちにご報告します。

あっさり内定

地方の県にノリで引っ越しちまったもんだから、その県で仕事を探していた。

地元の企業を2社受けて、落ちた。

いけ好かない奴に、ダメだと言われているようで、自信が全くなくなった。

こんな奴にダメだと判断されるのだから、よっぽど私はダメなんだろうと。

そして、夜の店のママには、夜一本でやってみたらどう?あなたなら才能があると思う。と言われて、一瞬その気になった。

でも、毎晩出勤して、お客様に気に入られて、この子は良いと言われる、それでも私はどんどん自信を失くしていった。

私にあるのは、中身ではなく、この外側の中途半端な見た目だけなのかと。

それが果てしなく嫌だった。

ずっと人に認めてもらいたいと願って生きてきたけれど、そこで、ああ私が認めてもらいたかったのは、外面でなく、内面にある何かなのだと感じた。

そこで、今度は都内の企業に向けて就職活動をしてみた。

馬鹿みたいに受かった。

というよりも、大手企業がまさかの当日内定を2社出してくれた。

確かに、良い大学を出た。

起業もしたし、今では有名な中小企業となっていた。

離婚したことも話した。

それでも、だからそんなに落ち着いているのだねと、プラスに見てもらえた。

地元の中小企業を受けた時には全くなかった反応であった。

正直びっくりした。

そして、内定後に受けて欲しいと言われていたSPIをしぶしぶ受けた。

ああこれで内定取消しかなってくらい出来なかったように感じた。

そしたら、今日、受けた会社の親会社の人事部から電話があって、すぐにでも会いたいと言われた。

腑に落ちなかったけれど、あとで担当者よりメールが来て、平均を優に超える結果だったようだ。

そして、明日、誰もが知っているあの会社の本社に行くことになった。

人生はわからないね、本当に。

彼らは、私が田舎のクラブで働いているのかは知らない。ただ、私を評価してくれているのだと嬉しくなった。

自分自身を評価するのは、自分ではないのだと切に感じた。

また、今の自分の環境における、周りの人々が私に対してする評価も、ただのひとつの評価なだけであって、正しいとか、大多数の評価なのだとか考える必要がないことにも気づいた。

大海に出てみれば、新しい評価基準が待っているのだと。

自分を過小評価する必要は全くないのだと。

 

クラブとママと私

縁あって私は今、夜のクラブで働いている。

私は、他の女の子よりも見た目は良いらしく、お客様にすごく可愛がってもらっている。

でも、客を引く気はさらさらないので、ヘルプで居させて欲しいと伝えてある。

私が行く先々で問題が多発するのは、この見た目のせいではないのかと思うに至る。

中途半端なんだと思う。

綺麗な方なのだろうけれど、超絶美人と言う訳ではないし、超絶モデル体型という訳でもない。だから、みんなから攻撃対象となりうるのではないかと。

今日、仕事の仕方という話題に、ママとお客様がいる中でなった。

お客様は、私はすごく良い子で、これから期待したいと言った。

そして、私は、他人と戦うのや競い合うのは嫌だと言った。

ママは、じゃあ結婚して専業主婦になったら良いと言った。

 

え?違くねそれ。

って思った。

 

他人と戦わなくても、利益は出せる。

それは、実際に起業して、年商20億達成したからこそ自信をもって言えることである。

だがしかし、ママにその事実を話せば、より攻撃対象になるのはわかりきっているので、話題にする気にもならない。

 

彼女からしたら、戦わないなら戦線離脱してください、ということなのだと思う。

 

でも、実際は、不戦勝もある。

損して得取れ的なことはもっとある。

でも、言ったところで分からないと思ったから、目を瞑った。

小手先だけの技術に心を砕いているだけ。

お誕生日にはプレゼント…それが果たしてなんの役に立つであろうか。

 

何故、人は自分の経験の上でしか他人を判断し得ないのだろうか。

何故、他の可能性を見出そうとしないのか。

 

戦わなくても、相手の為を思って仕事をしていたら、余分に返ってくるのだと、私は信じている。

アガスティアの葉 2

アガスティアの聖者が描かれた額縁に向かって、「私のアガスティアの葉が見つかりますように」と願うようにと言われ、私は一心に願った。
それでも、心の片隅では自分の葉が見つからないことを恐れる気持ちがくすぶっていた。
そして、1つ1つの葉に書かれていることについて、イエスかノーで答えて行くことに。
「あなたは結婚していますか?」 ノー。
次の葉へ移る。
「あなたのお父さんの名前は あ行 で始まりますか?」 ノー。
次の葉へ移る。
「あなたは3人兄弟ですか?」イエス。
ちょっと嬉しくなる。
「あなたのお母さんの名前は ○○子 で終わりますか?」ノー。
残念だが、次の葉へ移る。
一度目の質問に イエス があったとしても、二度目の質問か三度目の前の質問で当てはまらないことが多く続く。
そうこうしているうちに残りの葉が少なくなって行く。
私は焦りと不安が積もって行く。
読み手が「大丈夫。そんなに焦らなくても良いですよ。」と慰めてくれた。
ノーだけど、イエスと答えてしまいたくなる衝動に駆られる。
一つの束は20〜30枚くらいで構成されている。
残り1枚となった。そして、その質問にもノーと答えた。
(ああ、終わった・・・)
私は完全に諦めた。やはり私の葉など無かったのだ。
ここに来るだけ無駄だったのだと独りごちた。

が、しかしだ。
おもむろにその束を仕舞った読み手は、カーテンで締め切られた向こう側へその束を持って消えていったかと思うと、違う束を持って来たのだった。

まだあるんかーーーい!!!

と心の中でツッコミを入れてしまった私であった。笑
そして、かなり安堵した。
もしかしたら私の葉があるかもしれない、そういう希望がまた湧いてきたのだった。

アガスティアの葉 1

ある日の仕事帰り、いつものようにメールをチェックしていると、私の指紋と合致するアガスティアの葉の束が見つかったと連絡があった。
指紋を送ったは良いものの、本当に私の指紋に合致する葉があるだなんて思ってもみなかった私は正直驚きを隠せなかった。
ちょうど大阪に彼から招待されている当日にインドから来たアガスティアの葉の読み手が大阪に来日するという。
このベストなタイミングにも驚いた。
どうやら本当にアガスティアの葉を読みに行くこととなっているのだと感じた。
セッションの時間帯も彼の仕事が終わる前の15時からと、急に時間が早まり、間に合うこととなった。そして、たまたま彼が取ってくれて居た新幹線の新大阪駅へと到着時刻も、14時30分と、15時に指定された場所に行くにはぴったりの時間であった。
私には、行くという選択肢しか無かった。
本当にこころからその日を待ちわびて居た。

そして、当日になった。
指定されたマンションの一室に到着すると、美しい女性がドアを開けて「こんにちは〜お待ちしておりました。」と部屋へと通してくれた。
そこでは、私の前の方のセッションがまだ続いており、もう少し待って居てください、とのことだった。
優しい顔をしたインド人の読み手、そして、通訳の日本語のやたらと上手いインド人が居た。
前の方は、人生を読んでもらっている途中で、50歳以降の運命については、また12年後にここへ聞きに来るようにと言われていた。
そういうことはどうやら珍しいらしい。普通は亡くなる年齢までの人生をアガスティアの葉は教えてくれるらしい。
が、一度料金を頂いているので、次回の12年後は無料で良いという。
私はそれを聞いて居て、アガスティアの葉ってなんて親切で優しいのだろかと感心してしまった。そして、同時にこのインドからきた方々はお金儲けをしに来ているわけではないことも悟った。
前の女性が帰って行くと、今度は私の番である。
心臓のドキドキが止まらなかった。
部屋の温度に関わらず、私はひたすらに冷や汗をかいていた。
ここで私は自分の人生の全貌を知ることが出来るのか。
また、自分の死期までわかってしまうのか。
そもそも、今回用意されたアガスティアの葉の束の中に私の葉は存在するだろうか?
たまたま指紋が似ていただけではないのか?
そういう疑問もあり、私はだんだん怖くなっていた。
ノコノコ大阪まで来て、私は一体何をしに来たのだろうか?という気持ちが強くなっていた。
そして、とうとう私の葉を探す作業が始まった。

蒙古ひだについて

夜の仕事を始めてからやたらと目が綺麗だねと褒められるようになった。

目が綺麗ってどういうこと?

と思っていたけれど、先日理解した。

私には日本人の8割が持つといわれる蒙古ひだがなかったらしい。

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眼球も九州の方々に多いと言われる薄い色の光彩が使用されているし。

だからとて、何がいいかは分からないけど、まあ褒められるということは良いことなのかな。

目頭にゴミが溜まるのはご愛嬌? 

 

アドバイスとは

人は誰かの相談に乗るとき、すべて自分の経験や知りうる知識の中で答える。
それはそうで、自分の経験にないことや知らないことに答えられるはずはない。
だがしかし、だ。その中で答えるといっても何かが違う、そう思うことが最近とても多い。
一体何が違うと私に感じさせるのか、それを考えていた。
それは、答え方、である。アドバイスの仕方と言ってもいい。
なぜ人は、人にアドバイスをするとき、高圧的または断定的になりやすいのか。
そして、なぜ人は、自分の過去をそこまでアピールしたがるのか。
相談をしているのは私なのに、何故か相手の過去の辛かったエピソードに相づちを打つ羽目になるのか。謎である。謎すぎる。そして、うんざりする。
例えば、私が仕事のことで悩んでいるとする。
そうすると、知らない間に自分はこれだけ大変だった!というアピールが始まる。
まあ、(だからあんたもそれぐらい出来るでしょ)ということなのだろうけど。
根本部分は一緒かもしれないけれど、大学にも行けず働くしかなかったことを以て、私は大変だった!あなたよりもずっと大変だったのよ!と言われても、なんのアドバイスにもなっていない。
じゃあ大学にさえ行っていれば大変じゃなかったとでもいうのであろうか?
大学に行こうが、行けずに働こうが、結局は同じなのだということを忘れている。
人間である限り、何をしていても悩むし、考えて行動していかなければならない。
それは一緒。誰が良いでも悪いでもない。
それと同じで、誰が優れているとか、誰がより楽な人生だった、とかもないのだと思う。
裕福な家庭で、親の理想を押し付けられて朝から晩まで塾に行き、良い大学に行ったからって、それは幸せなことと言えるだろうか?
また、親が貧乏で親の借金を肩代わりし、働いて来た人が不幸であったと単純にまとめられるであろうか?
親が金持ちでも、勉強の結果でしか判断されず、親の期待を押し付けられて、愛情を知らずにプレッシャーだけを押し付けられて生きてきたかもしれないじゃない。
親が貧乏で借金があっても、親の愛情をしっかりと受け取って、心は幸せで生きてきたかもしれないじゃない。
表面の事象だけ捉えて考えたってそんなの本質じゃない。

アドバイスとは、自分の人生を意見に乗せて相手に押し付ける行為ではない。

八つ当たりを否定する馬鹿

叱るという行為を履き違えている人が非常に多い。

 

叱る、それは、自分の為でなく、相手の為にする行為だったはずである。

 

注意するのも同じ。

 

自分のエゴを押し付けるのは叱るではなく、ただのストレス発散である。

 

本当の意味での、叱る、は後々になって分かる。

 

本人が成長していたら、それはキチンと叱れていたということであり、本人が居なくなっていたら、エゴでやつあたりしていただけだったということである。

 

お互い人間でしかないので、叱られる方も相手が本気で自分を思ってるのかどうか余裕で分かっちまうのですよ。

 

人がすぐ辞めていくような会社の経営者はそこらへんをキチンと理解して経営したらいいと思う。

 

結局は人情でしかないの。

売り上げを求めるあまりに働いてくれている人たちの感情を理解できないなんて、本末顛倒でしょう。

 

お客は変わる。

でも社員は変わらない。

それが本当の良い組織というものではないでしょうか?

 

働き手が辞めて、働き手を悪者にして済ます経営者は粋じゃないねえ。