Way to be HAPPY

Life is a Journey

愛すべきリリィに寄せて

この度、
愛すべきリリィが独立するという報告が!

やっぱりすごいなーリリィは。という気持ちがほとんど。

彼女はNLPの同期。最初から私に一直線で「あなたに興味があるの」
と突っ込んできてくれた女性である。

私の1つ上。なのにすごいバイタリティと経歴がある。

最初はもはや仰ぎ見るような感じで彼女に恋をしていたくらい。

でも、途中から、いつもの悪い癖が出てきて、
ま、いっかーーーという状態で、ほとんど放置。

どうして私はこうも、こうなのだろうという疑問はさておき。

多分、そう思ってしまったきっかけは前回の飲み会だったのかもしれない。

同期の男性の悩みに対して、かなり「決めつけ」ていたように感じられたのだ。

そしてその彼女の「決めつけ」に対して異論を唱えていたのは本人。

酔っていたとはいえ、そのやりとりを見て、つい見切りをつけてしまった私がいた。

どうして、人はそうも決めつけたがるのだろう。

自分がそうされてきた、そう言う経験があるからこそかもしれないが、
決めつけられるとめんどくさくて仕方がない。

そうやって決めつけたがる人は、その意見を否定すると更に自己を正当化するために
被せてくるからだ。

そんなことをやっていると議論はいつまでも終わらない。

だから、いつからか私は反論することを諦めた。
迎合することを覚えた。

要は、相手の意見に同調する。それだけだ。

でも、言いたいことを言えない、その状態は私を異常にする。

そう言う相手に会うと、過食嘔吐が止まらなくなる、そう言うことがよくあった。

信じたくなかった。

彼女がまさか。

と思っていた。

でも、それは事あるごとに起きていた。

私はようやく認めた。

ああ、そうだったのだと。

でも、リリィはそうではない。

ただ、興味を失っただけ。

彼女は私を攻撃することはない。

だから、心から応援している。

愛すべきリリィに寄せて。

私のご先祖様

突然ですが、
私の両手には、くっきりと神秘十字なるものと、
親指には「仏眼」なるものがございます。

どうやら両方とも、
直感力が優れている、とか
ご先祖様に守られている、とか
そういうもののよう。

ググると、何だかいいものなんだなーーーー
と言うゆるーい感想しかなかったのだけれど。

だけれど。

バリのムルカット儀式中にその理由を理解してしまったと言う話。

イダさんは、バリでも有数な神官の人なのだけれど、
最新情報によると、ご先祖様はウブド界隈にある寺院で銅像になっておられるそう。
そして、その生まれかわりとか言うスッゲー人だったみたい。
(ちょー知らなかった新事実な、これ)

と言うことで、どうやら私をサポートしている存在とお話ができるそう。

私と私の中に入っているスピリットの方向性が違いすぎるから辛いんだ、
と前回のバリ島貯金奪取編で予告されていた私。

何だよ、私の言うこと聞かないスピリットなんていらないわ!
とそれからずっと目の敵にしていた。笑

からの、新事実が。

儀式の途中で、どうやらイダさんは私をサポートしているスピリットと話をした模様。

そして、そのスピリットは私のご先祖様だったと言うわけ。

ひーヒーヒーヒーヒーヒーばあちゃんな。

そして、そのばあちゃんは、卑弥呼がいた時代くらいの古い人で、
そして、卑弥呼のように人々を教え導く巫女的な存在だったそう。

それをイダさんから聞いた時、
あーーーーーーーーーーーーー・・・・・
となったのは内緒。

そんなばあちゃんからすれば、クスリやりまくり、男とやりまくり、
タバコ吸いまくり、酒飲みまくり、かつ、自分の見た目気にしまくり、
なヒーヒーヒーヒー・・・孫を快く思わないこと必至な訳ですね。

お前のために今まで恵まれた環境を用意してきてやったけど、もうしてやらん。

と仰せのようでして。

実体験として言わせてもらえば、
まさに!!と思うしかないことが立て続けに起こっていた。

恵まれた結婚生活を破綻させ、
受け取った1500万を3年で使い果たし、
そろそろ貯金一桁や。

これは、きっとばあちゃんのショック療法だな、と。笑

ただし、悔い改めスピリチュアルに生きていくなれば、
私はあなたを全面的にサポートします。
とばあちゃんは言ってくれたらしい。

色々な人から色々なことを言われて、
全てを受け取りすぎて混乱しているようだけれど、
自分と向き合って、自分を癒して、自分を立て直しなさい、と。

人と自分を比べるのではなく、
全ては自分と神との関係性しかないのだから、と。

頭をガツンとやられたような衝撃。

両手に刻まれた神秘十字と仏眼は全てばあちゃんを表していたようにしか思えないエピソードだった。

クスリ打ちすぎて、致死量いっていても気を失うだけで死ななかったのも、
肝炎になっても完治してしまったのも、世界中旅しまくって一度もやばい目に合わなかったのも、
全てはばーちゃんが守ってくれていたのかな、とさえ思ってしまう私がいたのでした。

様々なひとたちから色々なアドバイスを頂くけれど、
実は、ばあちゃんのアドバイスに従っていけばいいんじゃないのかと。
そう気づけた事件だった。

まあ、要は直感に争うことなく従えばいい、と言うこと。

他人の意見が自分の直感より優れていると思い込んでいたことに気づけた瞬間だった。

どうして私と言う存在が理解している自分よりも、そうでない他人が正しいと思っていたのだろう?

夢から醒めた瞬間だった。

それから、ばあちゃんと何か約束をしたかもしれないイダさんはこう言った。

「もし、本気でスピリチュアルに生きる気があるなら、
またバリに来て、その時、私が知っている医療の技術についてあなたに教える」と。

ああ、試されているなあ、私。ばあちゃんに。

でも、もう大丈夫。

おばあちゃん、私は頑張るよ。

いつも見守ってくれてありがとう。

友人

考えてみれば、今の私には友達と呼べる存在が片手にも満たない数しかいない。

しかし、それで後悔や不満を感じたことは一度もなかったし、今もない。

今日は私の唯一の友達の話をしたいと思う。

彼女は、同じ歳で、大学で同じクラスだった。

最初の出会いは、英語の授業。

当時彼女は金髪で、化粧が濃く、当時でいうギャルだった。

そういう存在に憧れを感じるすべを持たない私が、
彼女だけには惹かれた。

彼女は、英語の授業で大幅に遅刻してきたくせに、
英語で言い訳をみんなが見ている前でし始めたのだった。

私はきっと私にないものがある人に憧れを感じたのかもしれない。

ああ、すげーなこいつ。
と心から感心したのを今でも覚えている。

金髪で厚化粧。
私が求める人物像ではなかったはずなのに。

それでも、彼女に惹かれた。

今振り返ってみても、自分から話しかけて、友達になってほしいと
そんな恥ずかしいことを言ったのは後にも先にも彼女だけなのだ。

そして、それ以外はどうでもよかった。
もちろん、友達になってくださいと言ってくれる人はいた。
でも、私が何かを持っているだろうという期待を感じ取ってしまうたびに、
いやー何もねえーーーーと自分から避けてしまっていた。

そんな中、彼女だけは特別だった。

当時、私の部屋はひどく散らかっていて、よく彼女が掃除してくれていた。

彼女とグアムに行った。
そして、私が全てアレンジしたホテルに彼女がちょっとした文句を言ったことがあった。

私は、今でもそうだけれど、知り合いに知っている人の文句をいうことは恥ずかしいと思っているので、
誰にも言えない。

はけ口がない。

だから、日記を書いていた。

誰にも読まれない前提で書いていた。

彼女のそのグアム事件のことも書いていた。

「だったら、自分でアレンジすればよかったのに」

確か、そう書いていた。

掃除をしている時、本棚からたまたま私の日記帳が落ちたらしい。

そして、そのページを読んでしまったらしい。

たまたまであろうがなかろうが、そこは問題ではないのだけれど、
彼女は数分後に、かしこまって、あのさ・・・
と切り出したのだ。

知っていて、言わないのも何だか嫌だから言わせてもらうね、って。

「ごめん、あなたの日記読んでしまった。」

とただそれだけ。

私は全てを理解した。

彼女が目の前で私にゲロっている、
ということは、ああ、あの箇所を読んだのだな、と。

彼女もそのつもりで言っていたのだろう。

私はそれを聞いてどう思ったか。

ああ・・・得難い人を得た。

心からそう思ったのだ。

だから、今も彼女は私の友達であり、
よき理解者であり、なくてはならない存在だ。

毎回遅刻してくることも、
毎回彼女に文句は言うものの、
それでも、心の底から信頼しているのは、
あの事件があったからかもしれない。

心に違和感を抱えたまま、付きあうなんて私にはできない。

そして、彼女にもそれはできない、
と言うことを身を以て示してくれたからこそ、
今、私たちは一緒にいるのかもしれない。

そんな彼女が、大好きだ。

本当に得難い人を得たと、
十数年経った今、
色々な経験をして、
心から思う。

彼女もそう思ってくれていたなら、
こんな嬉しいことはない。

バリでの話

私は先月、バリでムルカットtをしてきた。

頭から聖水を数種類ぶっかけられて、
ビッショビショの拷問かというほどだった。

聖水が湧き出る泉に地元民と並び、
浸かり、水を頭から浴び、
寒過ぎて唇紫になるという苦行も行ってきた。

そんな中、私が学んだことはとても大きかった。

ムルカットがどうとか、を超えて、
バリの人たちの生き方を身を以て学ばせてもらった。

彼らは日本人のように将来を憂うことは、ほぼない。
もはや断言できるレベルで、本当に、ない。笑

そして、私はそれが日本人が失った美徳であると感じている。

バリの人たちは本当の意味で、「今」を生きている。
「今」感じること、「今」の幸せを享受している。

だから、日本人では過労死しないレベルの事件で数百人過労死する。笑
大統領選挙だかの集計で、連日就業時間が16時間ということが3日続いたことで、
数百人過労死したとの報道があった。

日本人である私としては、ギャグでしかないと思ってしまって、
地元民に確認したところ、
「ああ、そりゃあ死んじまうよ」
と皆口を揃えて回答してきた。

日本の常識、バリの非常識である。

恐らく思うに日本人は、兵隊戦略が知らず知らずのうちになされていて、
ストレス体制がMAXなのだと思う。
普通、バリ人が過労死してしまうことに対して、
(え、なんでそんなことで死ねるの?)
という疑問がわくのであるから、その方針は国として成功しているとしか言いようがない。

クスリだってそうであるが、耐性ができるので、
そのうち通常の人であれば死に至る致死量を血管に打ち込んでも死ねない日がくる。
私がそうだった。そのおかげで生きているとも言えるけれど。

そういう耐性は脳内のストレスホルモンに対しても同じことが言えるのだろう。

それを如実に表しているのが
バリ人はその労働時間で過労死するが、
日本人は死ねない。
という事実なのだと思う。

そして、私たち日本人の生き方がいかに自然から引き離されているかを考えさせられた。

工業化された社会。
そして、その後には、人々に気づかれないような奴隷社会が築かれているのだろう。
私たちがそうとは容易に気づけないような奴隷制度がある。

私たちは、もっとバリの人から学ぶことがある。
そう思った。

というよりも、私たちはそろそろ原点回帰する時期がきているようにも思う。

祈りは日本の要だったはずだ。

バリ人は毎朝、毎昼、ちゃんとお祈りをしている。
どんな人も、だ。

日本人は祈りをいつからか忘れてしまったのだろう。

世界中に祈る場所があることからも明白なように、
きっと我々は祈ることが生活の一部だったはずだ。

それを失った私たちは、ある意味片手落ち、
というよりも、欠落した日々を送っているのではないかと思う。

困った時の神頼み、だけではまかり通せない。
そういう時期がもうきているのかもしれない。

引き寄せという欺瞞

巷で流行っている「引き寄せ」

引き寄せって起こるのかなあという疑問。

「念」と「引き寄せ」の違いがもうごちゃ混ぜw
の私としては、ほとんど理解できない領域までやってまいりました。

○○を願ったり、欲したりするってこと
それは即ち、
「あーそれ今私にないので、よろしくお願いしまーーーす」
的なことでしょ?

であれば、
もし、その意識が宇宙に通じて、それが叶うとすれば、
「あーそれ今私にないので、よろしくお願いしまーーーす」
の「あーそれ今私にない」が引き寄せられるんじゃね?
って思うのは私だけでしょうかね?

今までそうだった、というかそうであり過ぎたwからこそ、
実体験を通して、疑問しか無くなってきている今日この頃。

バリでムルカットをして、
イダさんの自由奔放な姿を見て、
あーもう生きるってそんなゆるくていいんだーーーー
と学んだ私。

そして、自分自身のスピリチュアルのみに挑戦し始めたのだけれど。

全て放り出したら、全てうまく回り始めちゃったというなんとも切ない話。

仕事に重きを置きまくっていた私だったのだけど、
もうどうでもいいやーーーーと、
その時熱烈にオファーをくれていた会社になんの期待もなく二つ返事で就職してみた。
その間、3日くらい。笑

面接もない。履歴書も最後の最後まで出してない。笑
飲み会の二次会で拉致されて、「是非働いてもらいたい」と代表者、役員総勢5名による
圧迫面接ならぬ圧迫説得。

給与は前職より良くて、新入社員なのに、
しょっぱなからあるシステムを全国に導入するプロジェクトのリーダーにしてもらった。

そして、資金は潤沢にあるから、やりたい放題。
もちろん決裁など手続きは踏む必要はあるけれど、ハンコ集めの御朱印集めてる人たちより楽w
全て同じビル内で完結する。
神社を巡る必要もなし。

そして、全国を飛び回れるという夢だったことが実現。
海外に仕事で行くということも実現。
英語を仕事で使うということも実現。

今まで転職活動を数社してみたものの、
実績はないので、うまくいかなかったことが、
全て諦めて、何も期待していなかった会社で全て実現するということが起こった。

もう、引き寄せより人生丸投げの方が流行るべき言葉に思えてきた今日この頃。

日々、何もない。
それでも、日々、何かが進んでいく。
そして、日々、目的のために運ばれていくような気がしている。

こういうものを求めていた。

そして、それが叶っている。

不思議だけれども、きっとこれが私の現実であり、真実なのであろう。

みんな、全てを丸投げしたら、きっとうまくいく。
そういうことなのだと思った。

「白線の内側に下がってお待ち下さい」

駅のホームにいると、
「白線の内側に下がってお待ち下さい」
というアナウンスが聞こえてくる。

ずっと幼い頃から心に残っている話がある。
クレヨンしんちゃんの漫画にあったやつ。

しんちゃんは、電車が入ってくる側に立って、
「こっちが白線の内側」
と言い張ったのだ。

みさえは激おこwww

でも、今でも思うのだけれど、
それってとっても鋭い指摘なのだと思う。

どちらが内側になるかなんて、
立っているポジションで異なるのだから。

そういうことに気がつかないと、
ただの意固地な人になってしまうような気がする。

人が見ている世界と自分が見ている世界は違う、
人が感じることと、自分が感じることは違う、
そういう前提に立てるか立てないか。

そういう違いが人間性に深みを与えるか、与えないかを左右するような気がする。

なんでわからないの?
ではなく、
どうして伝えられなかったか?
を問えない限り、
相手との差は埋まることはない。

イギリスだかどこかで、面白いアナウンスがあるよって友達が教えてくれた。

「MIND THE GAP」

まあ、電車とホームの間に気をつけろという意味なのだけど、
これは、しんちゃんくらいに人生にも有用に思えて。

GAPに気をつけろ!!

人が自分と同じものを見て、同じことを感じる可能性はほとんどないと思って、
そのGAPに気をつける、そういうことが大事なのだなあと思う。

それが分からないと、気がつけば、親しくなった人みんな消えてる、
ということになりかねないものね。

復活

久しぶりの投稿。

一度はやめようと思った。だからこのブログを閉じた。

でも、そうじゃないだろって思った。

だから戻ってきた。

そもそもこのブログを誰かを傷つけるためにでも、
誰かを不愉快な思いにするためにでも、
そういう理由で書いていない。

それが大事だったということにようやく気づいた。

私は私のためにこのブログを始めたのではなかったのか。

私は私という存在を、私という人生を立証するために、
このブログを作ったのではなかったのか。

であれば、もう些細なことはどうでも良いのではないか?

ということで、復活。

No one can conquer me.

違う電車に乗ったという洗脳

スピリチュアルな業界でよく聞かされる言葉。

「あの人は、違う電車に乗った」
これを訳させて頂きますと、
あの人は私たちとは違う道を選んだ、
ということになります。

そして、意味合いとしては多分にマイナスな意味合いが含まれております。

これは、ヒプノセラピー の教祖様でもあるクソババアがよく使っていた手で、
そう言うことを言われていると、
(ああ、私は同じ電車に乗らないといけないんだな)マインドになっていくようにできているようで。笑

まんまと当初ははまっていた私は、
不安との戦いでした。
そして、その不安を利用して私は彼女の思うように動いていた。

それと同じ事がどうも周りでよく起きている。

○○しないと、あなたは違う電車に乗ってしまう、的な。

今、思う事。

別にあなたと違う電車でもよくね?www
ということ。

どっち側でもいいし、どの電車でもいい。

何が正解なんて、本当は幻想だし、
答えなんて死ぬまでわからないんだから。

私を見る人のバイアスがかかった状態でわたしに言葉をかけるしかないのだろうけれど、
私はずっとそれに右往左往してきたのだと思う。

もう、気にしない。

そんな瑣末なことはどうでもいい。

その人ががっかりしても、認めてくれなくても、
別に、もういい。

人の期待を知らず知らずのうちにまた生きようとしていた自分に気づいた。

他人なんて関係ない。

これを読んでいる誰がどう私のことを評価しても関係ない。

あなたにはあなたの人生。
私には私の人生。
それしかない。

だからもう、私は誰に教えをこうことはない。

私の正解は、私が決める。

そして、私はもうそれを知っている。

死ぬまで生きる、その長さ

かなり久しぶりの投稿。

結局、何をどうしたって、この疑問は消えることはない。

どうして、私は生きていなきゃいけないの?

休みの日の朝、極限まで寝ていることにしてみた。

何度も何度も色々な夢を見た。

その何種類かは覚えている。

でも、何の影響もメッセージ性もない。

大体が、そのシーンには仲間と思えるようなひとたちがいて、
自分が拒絶されるという夢ばかり。

ヒプノセラピーを始めた。
お客さんはみんな「ありがとう」と行って、
そのドアから出て行く。

ああ、やっていてよかったな、と思える。

それでも、結局、自分の生きている意味とはかけ離れている何か。
としか捉えられない。

どうして私は生まれたの?

どうして私は今、生きているの?存在しているの?

そもそも何故365日、24時間中寝ている時間以外このような疑問を自分に問いかけていなければならないの?

そういう疑問と、
ただ、漠然とした不安感に追いやられている。

私は一体、どうなれば幸せなの?

私を愛していると言ってくれる人がいる。

心配してくれる人がいる。

それでも、生きているのが辛い。

どうしてこうなっちゃうんだろう。

私は、どうして、ここにいるのだろう。

生きるということ

久しぶりの投稿。

ここ最近は不安に押しつぶされてぺちゃんこ状態。

朝、目覚めるのが嫌すぎてスヌーズ機能20回使っていたと気づいた時に、
ああもう私だめだわwって思った次第。

そんなこんなで、短期の派遣に行ってみることに。

今日が初日だったのだけれど、案外ちゃんと起きれた。

そして、案外きちんと素晴らしい働きを見せた。

仮面をかぶると私は強い。

何か強制的に予定を入れなくては、堕落する一方なのだと思った。

それも、他人に迷惑をかけてはならない、という気持ちが働くよう、
働く、だったり、誰かと約束をするという類のものが。

自分との約束は一番反故する確率が高い。

最近は90%を超えている。

父親がよく言っていた。

自営業をするなら、きちんと朝起きて、
しっかり自分をコントロールできないと無理だ、と。

それを数十年やり続けている父をようやく尊敬し始めた。

というより、サラリーが決まっていない自営業の世の中で、
しかもど田舎で、よくぞここまで3人を仕送りしつつ大学に行かせたな、と感動さえ覚えた。

私は、何も返せていない。

私が幸せに生きてさえすればいいという。

それさえもろくすっぽできていないんだ、顔向けさえできないわ。

バリ島の人々をみていて、感じた。

お金でもない、地位でもない、なんでもない日常を幸せに感じれなければ、
どちらに転んでも幸せなんて感じようがないんだって。

でさ、幸せってなんなの?