Way to be HAPPY

Life is a Journey

反射

人を貶す人は、自分を貶している。

人に興味がない人は、自分にも興味がない。

人を騙す人は、まず自らを貶めている。

人を賞賛する人は、自分を褒め称えている。

人を愛する人は、まず自らを愛している。

外界に対して発するものは、全て内側へと向けられている。

そして、内側に向けられたものは、全て外界へと発散されていく。

光の反射のように。

でも、本当は暗闇でさえ、反射しているに過ぎない。

有るものは、無いし、無いものは、そこに有る。

無いと気づく時点で有ることを知っている。

有ると気づく時点で本当は存在しないことを語っている。

全ては同列に並べられている。

なのに、なのに、どうしてこんなにも世界に塗れてしまうのだろう。

生死と書いたら精子と変換された話。それでも、指している事象は同じ。

毎日がなんとなく過ぎていく、そのこと自体を憂う人はいるのだろうか。

死に対する渇望の中に、生への渇望を見出すことができる。

そのようにして一見関わりを持たない現象の中に結びを見つけることで、今を生きながらえている。

自分とこの外界の世界との結びは、死と生との間にあるもので形作られているのかもしれない。

自分を通さなければ、今私の外側に存在する世界を把握することはかなわない。
しかし、同時に自分という存在を介さないことによって、世界という存在をもっと広い視野を持って捉えることができる。

人を欺こうとする意思を持つことによって、人を欺かない神聖さを保つことが出来るのと同じくらいに、
世界は捉えようとしないことによって、この手の中に落ちてくるものなのだと思う。

足掻けば足掻くほど、溺れれば溺れるほど、更に生というものを鮮烈に感じ取れるように。

ベクトルは違えども、作用する力がものをいう。

無というのは無限であり、有るということが有限で有るように。

愛鳥

私は鳥が好きだ。
何故か昔から鳥が好きだった。
好きで好きでたまらないほどに好きだ。

可愛いインコだけでなく、カラスや鷹や鳩もなんでも好きだ。
ついでに言えばドラゴンも好きだ。

あのおぼつかない2本足に比べて大きすぎるくらいの羽を上半身に抱えて、
ヨタヨタ歩いている姿を見ると愛おしくてたまらない。

空を飛んでいるときも。

きっと自分に重ね合わせているのかもしれない。

なぜ、空を飛んでいる時よりも、地面でヨタヨタ歩いている姿を愛してしまうのか。

飛べるのに飛べない自分、という日本語崩壊しているような表現だけれども、
それが私だと認識しているからかもしれない。

本当は飛べるけど、飛ばないだけかもしれないのに。

ここ数日、ようやく油画への呪縛が解けたのか、また描き始めている。

今度は、愛鳥のオカメインコを。

もし、あの時、違う男の飼っている犬を描かなかったら、
夫は犬の目に鉛筆を刺すことを止めただろうか。

あの時から、油画を描くことが怖くなった。

乱雑に荒らされた部屋。
ひっくり返った本棚。
真っ二つに割られたパソコン。
その部屋で漂う油画の絵の具の匂い。

その全てが私を油画から遠ざけていた。

油画を習ったことはない。
特段美術が好きだった訳でも、得意だった訳でもない。

それでも、何故か昔から憧れていた油画。

描きたくて描きたくて、道具は全て揃えていたというのに、
全然手が出せなかった。

油画の好きなところは、
色を塗り重ねていけること。
そして、重ねれば重ねるほど、色合いに味が出てくること。

気に入らなければ、なんども削ぎ落として、描き直せるところ。

つまるところ、それは私が人生というものに求めていた全てなのかもしれない。

まだ下絵から色を塗り始めて2日目。

キャンバスの上で、私の手によって、私の好きなように、
私の好きなものを創造できる喜びは、想像していた以上に大きかった。

そして、それと同じことをこれから人生で体現していくのだろうと思う。

私には今同棲している人がいる。

愛しているかいないかで言えば、愛していない、に分類されるかもしれない。

でも、必要か必要でないかで言えば、必要な存在なのだ。

彼の体積はほとんど私と同じか、ちょっと多いくらい。

体積で表したのは彼の身長を慮ってみたからかもしれない。

身長でいうと、5センチくらいしか変わらない。

私の性的対象となる身長は私より、15センチ以上上の身長だった。

理由は、我が家の男性がそうだったから。

兄は183センチ、父は178センチ、姉は165センチ。

とりあえず、平均身長が高い家系だったということもある。

私は、私より大きい人にしか発情しないようにできているらしい。

大きいといっても、身長差が5センチだとほぼ同じとみなす。

最近気づいてしまったのだけれど、彼は私の胸で寝ていることが多い。

私にもたれかかっていることが多い。

もはや性別が逆なんじゃないかという疑惑がある。

私は誰かの胸で眠りたい。

でも、現状は真逆という事実。

それが一層私を追い込んでいるような気がする。

彼がいる限り、誰かに頼ることもできない。

彼は私を助けることはできない。

何故ならその能力がないから。

そこまでわかっていて抜け出せない現実。

ずっと囚われているような錯覚。

そして、私は精神的に誰にも頼れないように設定してしまっている。

もう、蟻地獄に等しい。

ただ、吸い込まれていくだけ。
それか、もがき続けて生きていくだけ。

そんな現実にもう辟易している。

でも、もう少しだけ。

長い夜の後には、目覚ましい朝日が昇る。

それをただ、今は盲目的に信じているだけ。

かなり久しぶりの投稿。

思うところがなかったわけじゃない。

でも、言葉に表すという手段に訴えなかっただけ。

過食嘔吐と同じで、言葉を吐き出す必要性に今、迫られているのかもしれない。

今日、39才の姉が第2子を授かったとの報告があった。

昔から私にとっては憧れであり、目の上のたんこぶのような存在だった姉。

いつもいつもずっと妬んで来たのかもしれない。

でも、嫌いじゃないんだ。

この運命を呪っているだけ、と言うか、この役割を呪っていると言うか。

私に妬まれると言う役割を買って出てくれている姉。

そして、姉の劣等感によってきっと私の人生は何か彩というか、
必要なものがあぶり出される設定になっているのだろう。

どうして、こういう設定になっているのかは今の私にはやはり皆目見当つかない。

それでも、憎んでいるわけでは決してない。

私のことを彼女なりに考えてくれて、心配してくれて、気を遣ってくれているのがわかるから、
やっぱりこれは設定だと感じる。

彼女は決して太ることもなく、身長は高く、顔は小さく、美しかった。
もしかしたら、39才の今でもそうかもしれない。

私はずっと彼女がコンプレックスだったのだ。

私が彼女の妹でなかったら、こんなに容姿に悩まされることも、
苦しむこともなかった。

もっと言えば、過食嘔吐になるきっかけさえなかっただろう。

でも、それは彼女のせいじゃないことはわかっている。

そういう設定にしたかっただけなのだから。

でも、そういうことがわかった上で、
私はやはり苦しむ羽目になる。

私は今は31才。

普通なら結婚して、子供がいてもおかしくない。

でも、離婚という道を選んだのは私だ。

そして、子供を産みたくないと必死に願っているのも私だ。

それらをことごとく拒否しているくせに、
今日の彼女のご懐妊報告に動揺してしまった私がいた。

何もない私。
お金もない。
仕事はあるけど、給料は初任給より低い始末。
まあ、何もないに等しい。

そして、彼女は立派なマンションに住み、
可愛い男の子を既に授かり、
専業主婦にしてくれる旦那がいる。

比べると、歴然の差である。

自分でこの自分の生活に追い込んで来たことは重々理解している。

それでも、辛い。

自分が社会不適応者になったような気分になった。

それは、この日本という社会がそうさせているのか、
自分で自分を追い込んでいるのか、
はたまた両方なのかは分からない。

歳をとっても結婚しない人はいる。
結婚したくてもできない人がいる。

その事実を理解した上で、私は今苦しい。

とっても苦しい。

この気持ちはどこから来るのだろう。

世の中のマジョリティの人々と比べることからくるのだろうか。

自分の設定している未来との乖離からくるものであろうか。

今はまだわからない。

なぜ私が女という性別に生まれてきたのか、
このような気持ちを抱えながら生きるのか、
きっといつか理解できる日がくるのかもしれない。

愛すべきリリィに寄せて

この度、
愛すべきリリィが独立するという報告が!

やっぱりすごいなーリリィは。という気持ちがほとんど。

彼女はNLPの同期。最初から私に一直線で「あなたに興味があるの」
と突っ込んできてくれた女性である。

私の1つ上。なのにすごいバイタリティと経歴がある。

最初はもはや仰ぎ見るような感じで彼女に恋をしていたくらい。

でも、途中から、いつもの悪い癖が出てきて、
ま、いっかーーーという状態で、ほとんど放置。

どうして私はこうも、こうなのだろうという疑問はさておき。

多分、そう思ってしまったきっかけは前回の飲み会だったのかもしれない。

同期の男性の悩みに対して、かなり「決めつけ」ていたように感じられたのだ。

そしてその彼女の「決めつけ」に対して異論を唱えていたのは本人。

酔っていたとはいえ、そのやりとりを見て、つい見切りをつけてしまった私がいた。

どうして、人はそうも決めつけたがるのだろう。

自分がそうされてきた、そう言う経験があるからこそかもしれないが、
決めつけられるとめんどくさくて仕方がない。

そうやって決めつけたがる人は、その意見を否定すると更に自己を正当化するために
被せてくるからだ。

そんなことをやっていると議論はいつまでも終わらない。

だから、いつからか私は反論することを諦めた。
迎合することを覚えた。

要は、相手の意見に同調する。それだけだ。

でも、言いたいことを言えない、その状態は私を異常にする。

そう言う相手に会うと、過食嘔吐が止まらなくなる、そう言うことがよくあった。

信じたくなかった。

彼女がまさか。

と思っていた。

でも、それは事あるごとに起きていた。

私はようやく認めた。

ああ、そうだったのだと。

でも、リリィはそうではない。

ただ、興味を失っただけ。

彼女は私を攻撃することはない。

だから、心から応援している。

愛すべきリリィに寄せて。

私のご先祖様

突然ですが、
私の両手には、くっきりと神秘十字なるものと、
親指には「仏眼」なるものがございます。

どうやら両方とも、
直感力が優れている、とか
ご先祖様に守られている、とか
そういうもののよう。

ググると、何だかいいものなんだなーーーー
と言うゆるーい感想しかなかったのだけれど。

だけれど。

バリのムルカット儀式中にその理由を理解してしまったと言う話。

イダさんは、バリでも有数な神官の人なのだけれど、
最新情報によると、ご先祖様はウブド界隈にある寺院で銅像になっておられるそう。
そして、その生まれかわりとか言うスッゲー人だったみたい。
(ちょー知らなかった新事実な、これ)

と言うことで、どうやら私をサポートしている存在とお話ができるそう。

私と私の中に入っているスピリットの方向性が違いすぎるから辛いんだ、
と前回のバリ島貯金奪取編で予告されていた私。

何だよ、私の言うこと聞かないスピリットなんていらないわ!
とそれからずっと目の敵にしていた。笑

からの、新事実が。

儀式の途中で、どうやらイダさんは私をサポートしているスピリットと話をした模様。

そして、そのスピリットは私のご先祖様だったと言うわけ。

ひーヒーヒーヒーヒーヒーばあちゃんな。

そして、そのばあちゃんは、卑弥呼がいた時代くらいの古い人で、
そして、卑弥呼のように人々を教え導く巫女的な存在だったそう。

それをイダさんから聞いた時、
あーーーーーーーーーーーーー・・・・・
となったのは内緒。

そんなばあちゃんからすれば、クスリやりまくり、男とやりまくり、
タバコ吸いまくり、酒飲みまくり、かつ、自分の見た目気にしまくり、
なヒーヒーヒーヒー・・・孫を快く思わないこと必至な訳ですね。

お前のために今まで恵まれた環境を用意してきてやったけど、もうしてやらん。

と仰せのようでして。

実体験として言わせてもらえば、
まさに!!と思うしかないことが立て続けに起こっていた。

恵まれた結婚生活を破綻させ、
受け取った1500万を3年で使い果たし、
そろそろ貯金一桁や。

これは、きっとばあちゃんのショック療法だな、と。笑

ただし、悔い改めスピリチュアルに生きていくなれば、
私はあなたを全面的にサポートします。
とばあちゃんは言ってくれたらしい。

色々な人から色々なことを言われて、
全てを受け取りすぎて混乱しているようだけれど、
自分と向き合って、自分を癒して、自分を立て直しなさい、と。

人と自分を比べるのではなく、
全ては自分と神との関係性しかないのだから、と。

頭をガツンとやられたような衝撃。

両手に刻まれた神秘十字と仏眼は全てばあちゃんを表していたようにしか思えないエピソードだった。

クスリ打ちすぎて、致死量いっていても気を失うだけで死ななかったのも、
肝炎になっても完治してしまったのも、世界中旅しまくって一度もやばい目に合わなかったのも、
全てはばーちゃんが守ってくれていたのかな、とさえ思ってしまう私がいたのでした。

様々なひとたちから色々なアドバイスを頂くけれど、
実は、ばあちゃんのアドバイスに従っていけばいいんじゃないのかと。
そう気づけた事件だった。

まあ、要は直感に争うことなく従えばいい、と言うこと。

他人の意見が自分の直感より優れていると思い込んでいたことに気づけた瞬間だった。

どうして私と言う存在が理解している自分よりも、そうでない他人が正しいと思っていたのだろう?

夢から醒めた瞬間だった。

それから、ばあちゃんと何か約束をしたかもしれないイダさんはこう言った。

「もし、本気でスピリチュアルに生きる気があるなら、
またバリに来て、その時、私が知っている医療の技術についてあなたに教える」と。

ああ、試されているなあ、私。ばあちゃんに。

でも、もう大丈夫。

おばあちゃん、私は頑張るよ。

いつも見守ってくれてありがとう。

友人

考えてみれば、今の私には友達と呼べる存在が片手にも満たない数しかいない。

しかし、それで後悔や不満を感じたことは一度もなかったし、今もない。

今日は私の唯一の友達の話をしたいと思う。

彼女は、同じ歳で、大学で同じクラスだった。

最初の出会いは、英語の授業。

当時彼女は金髪で、化粧が濃く、当時でいうギャルだった。

そういう存在に憧れを感じるすべを持たない私が、
彼女だけには惹かれた。

彼女は、英語の授業で大幅に遅刻してきたくせに、
英語で言い訳をみんなが見ている前でし始めたのだった。

私はきっと私にないものがある人に憧れを感じたのかもしれない。

ああ、すげーなこいつ。
と心から感心したのを今でも覚えている。

金髪で厚化粧。
私が求める人物像ではなかったはずなのに。

それでも、彼女に惹かれた。

今振り返ってみても、自分から話しかけて、友達になってほしいと
そんな恥ずかしいことを言ったのは後にも先にも彼女だけなのだ。

そして、それ以外はどうでもよかった。
もちろん、友達になってくださいと言ってくれる人はいた。
でも、私が何かを持っているだろうという期待を感じ取ってしまうたびに、
いやー何もねえーーーーと自分から避けてしまっていた。

そんな中、彼女だけは特別だった。

当時、私の部屋はひどく散らかっていて、よく彼女が掃除してくれていた。

彼女とグアムに行った。
そして、私が全てアレンジしたホテルに彼女がちょっとした文句を言ったことがあった。

私は、今でもそうだけれど、知り合いに知っている人の文句をいうことは恥ずかしいと思っているので、
誰にも言えない。

はけ口がない。

だから、日記を書いていた。

誰にも読まれない前提で書いていた。

彼女のそのグアム事件のことも書いていた。

「だったら、自分でアレンジすればよかったのに」

確か、そう書いていた。

掃除をしている時、本棚からたまたま私の日記帳が落ちたらしい。

そして、そのページを読んでしまったらしい。

たまたまであろうがなかろうが、そこは問題ではないのだけれど、
彼女は数分後に、かしこまって、あのさ・・・
と切り出したのだ。

知っていて、言わないのも何だか嫌だから言わせてもらうね、って。

「ごめん、あなたの日記読んでしまった。」

とただそれだけ。

私は全てを理解した。

彼女が目の前で私にゲロっている、
ということは、ああ、あの箇所を読んだのだな、と。

彼女もそのつもりで言っていたのだろう。

私はそれを聞いてどう思ったか。

ああ・・・得難い人を得た。

心からそう思ったのだ。

だから、今も彼女は私の友達であり、
よき理解者であり、なくてはならない存在だ。

毎回遅刻してくることも、
毎回彼女に文句は言うものの、
それでも、心の底から信頼しているのは、
あの事件があったからかもしれない。

心に違和感を抱えたまま、付きあうなんて私にはできない。

そして、彼女にもそれはできない、
と言うことを身を以て示してくれたからこそ、
今、私たちは一緒にいるのかもしれない。

そんな彼女が、大好きだ。

本当に得難い人を得たと、
十数年経った今、
色々な経験をして、
心から思う。

彼女もそう思ってくれていたなら、
こんな嬉しいことはない。

バリでの話

私は先月、バリでムルカットtをしてきた。

頭から聖水を数種類ぶっかけられて、
ビッショビショの拷問かというほどだった。

聖水が湧き出る泉に地元民と並び、
浸かり、水を頭から浴び、
寒過ぎて唇紫になるという苦行も行ってきた。

そんな中、私が学んだことはとても大きかった。

ムルカットがどうとか、を超えて、
バリの人たちの生き方を身を以て学ばせてもらった。

彼らは日本人のように将来を憂うことは、ほぼない。
もはや断言できるレベルで、本当に、ない。笑

そして、私はそれが日本人が失った美徳であると感じている。

バリの人たちは本当の意味で、「今」を生きている。
「今」感じること、「今」の幸せを享受している。

だから、日本人では過労死しないレベルの事件で数百人過労死する。笑
大統領選挙だかの集計で、連日就業時間が16時間ということが3日続いたことで、
数百人過労死したとの報道があった。

日本人である私としては、ギャグでしかないと思ってしまって、
地元民に確認したところ、
「ああ、そりゃあ死んじまうよ」
と皆口を揃えて回答してきた。

日本の常識、バリの非常識である。

恐らく思うに日本人は、兵隊戦略が知らず知らずのうちになされていて、
ストレス体制がMAXなのだと思う。
普通、バリ人が過労死してしまうことに対して、
(え、なんでそんなことで死ねるの?)
という疑問がわくのであるから、その方針は国として成功しているとしか言いようがない。

クスリだってそうであるが、耐性ができるので、
そのうち通常の人であれば死に至る致死量を血管に打ち込んでも死ねない日がくる。
私がそうだった。そのおかげで生きているとも言えるけれど。

そういう耐性は脳内のストレスホルモンに対しても同じことが言えるのだろう。

それを如実に表しているのが
バリ人はその労働時間で過労死するが、
日本人は死ねない。
という事実なのだと思う。

そして、私たち日本人の生き方がいかに自然から引き離されているかを考えさせられた。

工業化された社会。
そして、その後には、人々に気づかれないような奴隷社会が築かれているのだろう。
私たちがそうとは容易に気づけないような奴隷制度がある。

私たちは、もっとバリの人から学ぶことがある。
そう思った。

というよりも、私たちはそろそろ原点回帰する時期がきているようにも思う。

祈りは日本の要だったはずだ。

バリ人は毎朝、毎昼、ちゃんとお祈りをしている。
どんな人も、だ。

日本人は祈りをいつからか忘れてしまったのだろう。

世界中に祈る場所があることからも明白なように、
きっと我々は祈ることが生活の一部だったはずだ。

それを失った私たちは、ある意味片手落ち、
というよりも、欠落した日々を送っているのではないかと思う。

困った時の神頼み、だけではまかり通せない。
そういう時期がもうきているのかもしれない。

引き寄せという欺瞞

巷で流行っている「引き寄せ」

引き寄せって起こるのかなあという疑問。

「念」と「引き寄せ」の違いがもうごちゃ混ぜw
の私としては、ほとんど理解できない領域までやってまいりました。

○○を願ったり、欲したりするってこと
それは即ち、
「あーそれ今私にないので、よろしくお願いしまーーーす」
的なことでしょ?

であれば、
もし、その意識が宇宙に通じて、それが叶うとすれば、
「あーそれ今私にないので、よろしくお願いしまーーーす」
の「あーそれ今私にない」が引き寄せられるんじゃね?
って思うのは私だけでしょうかね?

今までそうだった、というかそうであり過ぎたwからこそ、
実体験を通して、疑問しか無くなってきている今日この頃。

バリでムルカットをして、
イダさんの自由奔放な姿を見て、
あーもう生きるってそんなゆるくていいんだーーーー
と学んだ私。

そして、自分自身のスピリチュアルのみに挑戦し始めたのだけれど。

全て放り出したら、全てうまく回り始めちゃったというなんとも切ない話。

仕事に重きを置きまくっていた私だったのだけど、
もうどうでもいいやーーーーと、
その時熱烈にオファーをくれていた会社になんの期待もなく二つ返事で就職してみた。
その間、3日くらい。笑

面接もない。履歴書も最後の最後まで出してない。笑
飲み会の二次会で拉致されて、「是非働いてもらいたい」と代表者、役員総勢5名による
圧迫面接ならぬ圧迫説得。

給与は前職より良くて、新入社員なのに、
しょっぱなからあるシステムを全国に導入するプロジェクトのリーダーにしてもらった。

そして、資金は潤沢にあるから、やりたい放題。
もちろん決裁など手続きは踏む必要はあるけれど、ハンコ集めの御朱印集めてる人たちより楽w
全て同じビル内で完結する。
神社を巡る必要もなし。

そして、全国を飛び回れるという夢だったことが実現。
海外に仕事で行くということも実現。
英語を仕事で使うということも実現。

今まで転職活動を数社してみたものの、
実績はないので、うまくいかなかったことが、
全て諦めて、何も期待していなかった会社で全て実現するということが起こった。

もう、引き寄せより人生丸投げの方が流行るべき言葉に思えてきた今日この頃。

日々、何もない。
それでも、日々、何かが進んでいく。
そして、日々、目的のために運ばれていくような気がしている。

こういうものを求めていた。

そして、それが叶っている。

不思議だけれども、きっとこれが私の現実であり、真実なのであろう。

みんな、全てを丸投げしたら、きっとうまくいく。
そういうことなのだと思った。