Way to be HAPPY

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境界性人格障害について

わたしが境界例(境界性人格障害)という言葉を聞いたのは大学2年生の時だった。

マックで本を読んでいた時、同じくらいの男性に話しかけられた。

というか、ほとんどナンパであった。

「君、可愛いね〜。何してるの?」

「本、読んでるの。(見ればわかるでしょ)」

という差し障りのない普通のナンパと同じ会話をしていた最中に、ふと、

「君って、境界例じゃない?」と言われたのだった。

境界例って言葉も初めて聞いたし、頭の中では、「キョウカイレイ」としか認識できず、漢字変換をすることができなかった。

聞き返すと、ううん、なんでもない。気にしないで。と言われた。

そんなこんなで、わたしはその時人生で初めて「境界例」という言葉に出会ったのであった。(その男ではなく、ね)

そいつとどうなったのかは、実はもう覚えていないのだけれど、そのシーンだけやたらと鮮明に覚えている。

そのあと、キョウカイレイを検索して、境界例(境界性人格障害)という言葉を知った。

そして、そのグーグル先生が教えてくれるサイトたちは、恐ろしいほどにわたしについての説明が書いてあるようにしか見えなかった。

 

ということを今日思い出した。

 

引越しを控えているわたしは、ダンシャリ(断捨離)に励んでいて、恐ろしいほど膨大な量の本棚に手を出した時に、奥から見つかった本が原因である。

 

その名も、「ここは私の居場所じゃない」

サブテーマとしては、「〜境界性人格障害からの回復〜」笑

 

いつ買ったのか、どこで買ったのか、はたまたなんでここにあるのかも不明というほどの忘れようだった。

まあ、家にある本の量を鑑みてみれば、それも仕方ないとも言える。

今回は、引越し屋さんの腰を慮って、本も断捨離するかという気になったというわけだった。

まず、引越しやさんからもらうダンボールの最小のサイズにしたって、すべて詰め込むと、彼らの腰がやられること間違い無しだからね。

 

ということで、興味津々で読んでみた。(読むのも初めて)

 

あなたは、わたしですか?

というくらい、わたしの感情について記されていた。

わたしと違うところは、わたしはもう、暴れることも他人に罵詈雑言を浴びせることも、しないというところだけ。

でも、きっと昔のわたしだったらやっていたであろう。

行動は違えども、心理構造がそっくりなのである。

 

わたしの特技は、サイキッカーよりも、IQ200の人間よりも(これまじで)、

他人の感情や表情が読み取れることである。

そして、相手にどう言ったら相手がどう行動するかのほとんどが予測がつく。

だからこそ、自分の周りにいる人間をコントロールしてきたようだ。

実は、自分が他人様をコントロールしているだなんて露ほどにも思っていなくて、この本を読んで、ああ、、、、と反省した次第である。

言ってみれば、自分をも欺いて、人をコントロールしてきたのである。

 

ということが、今日判明した。

目から鱗どころか、龍そのもの(というか魚か?)が出てきちまったかのような衝撃である。

それでも、思い当たる節はある。多分にある。笑

 

まだ読み始めだけれど、実はこの本がわたしを変える最後のチャンスなのではないかとも思っている。

 

いつまでも、他人をコントロールしてはいられない。

それでは、自分の成長にはならないし、いつか痛い目をみる。

そして、もう痛い目は多分にみている。笑

他人はコントロールできても、わたしに降りかかってくる事象はコントロールの対象外のようで、わたしはどこにいても、何をしていても、必ず事件にあって、人生において、痛い目をみ続けているのであった。

別に、被害者アピールをしたいわけではないのだけれど、やたらと事件が多いのは、わたしの根性のせいなのだということが、ようやく腑に落ちた。

自分をコントロールできないくせに、他人様をコントロールしている場合ではないのである。

 

そろそろ、春分。

3月20日までに、わたしは自分を変革しないと、もう人生詰むことがわかりきっているので、あと、数日、本気で取り組まなければいけないテーマだったりする。

 

そして、その鍵は、わたしがほとんど思い出せない幼少期にあると思っている。