私は、巷で噂になっている瞑想などというものに一切興味を抱いてはいなかった。
というよりも、瞑想なるものに挑戦しようとしたところで、眠ってしまうか、邪念だらけでにっちもさっちもいかないという現象が起こり、私には縁がないもの、という認識に至っていたからである。
いろいろな本が出版されている。
瞑想の効果、とか、瞑想による云々・・・などなど。
確かに、睡眠前に瞑想をするとよりよく眠れることは実証済みであったが、それ以外の効能というものには興味がなかった。だって寝てしまうもの。
ちなみに、ヘミシンクといういかにもアメリカらしいやり方の方法があるけれども、いつもいつも例外なくお眠りしてしまう私としては、変性意識ってなんやねんと思っていた。
そんな私が何故か、沖縄で行われる瞑想のワークショップ(3日間)に参加することとなった。
しかも、この春分の時期に。ちょうど3日目が春分であった。
だんだん私のブログは、スピリチュアル的な感じになってきているとは思うけれど、精神的に問題があったり、何か人間というものに問題意識がある人は結局ここに行き着くのだと思っている。
というよりも、私の持論なのなけれど、心理学、数学、物理学、哲学、その他もろもろは、結局そこに行き着くのだと思っていて、結局「それ」を解明したいがために、入り口は違うけれども、同じところを目指しているように思っている。
クオークだって、数式だって、結局「それ」を人間の現在の脳みそで理解できる物質的な形に表現したいだけなんじゃないかと。
「それ」ってのは、曖昧な観念なので、みなさんに表現はお任せいたします。
ある人は、愛と言うし、ある人は、神と言う、そういう曖昧模糊とした観念なのだと思っている。あ、クオーク然り、ね。
あの観測した時に登場しちゃう辺り、ものすごくそういう感じがする。
物質か、物質じゃないか、人間が見た時にしか決定しないあたり、もう、そうでしかないよね〜状態。笑
そう考えると、人間というのは、ある意味フィルターであって、それを観測するために高機能な何かを搭載してるんじゃないかとも思ってしまう。
人間という存在のために作られたかどうかは定かではないけれども、その観測される存在は、人間という存在をある程度視野に入れて設計されていたのではないかと。
真実は神のみぞ知る、だけれどもね。
ということで、私は何故かその瞑想のワークに参加した。
そこで得たこと、それはかけがいのない経験であったし、かけがいのない気づきであったし、かけがいのない心理であった。
かけがいのない、って言葉よく使われているけど、これって、「掛け買い」から来たのね。変換していて気がついた。なんという商人的な言葉。笑
それか、言霊として「かけがい」があったのか?
私には知りようもないけれど。語感が好きね。
正直、瞑想なんてしたって無駄でしょ〜くらいで参加したのだけれど。
瞑想もそうだけれど、気づきという観点で考えると、素晴らしい体験だった。
人は気付かなければ、気付かない。
日本語的にはかなり崩壊しているけれど、今の私の気持ちを言い表すのであれば、これがぴったり。
分かっているけれど、できない
という状態は、本当は、気づいていないということなのだということも理解した。
そういう状態にある時、人は本当は分かってはいないのだ、と。
わかる、という言葉の定義が問題になってきそうだけれど・・・
左脳で、文章として理解出来るのと、腑に落ちる、というのは違うという表現ならわかりやすいかな、と。
人は、腑に落ちてこそ、実生活で活かしていけるのだと思った。
だから、本をいかに読もうとも、勉強しようとも、それが実生活で行動に移されなければ、なんの意味もないということ。
こればかりやっていると、「分かっちゃいるんだけど」現象が起きる。
私がそうだった。
あなたの言っていることはわかる。(これ以上言わんでもいいわ)
となる。
でも、実生活で生かされていないからまた同じことが起こり、同じことを指摘される。
そして、
「分かってます」って答えたくなる。又は、心の中で思う。
でも、それを指摘する方は、改善されていない行動を見ているから、
(こいつ、ホンマ口だけやなあ)となる。
あ、これは私のことだけれど。笑
でも、不思議と腑に落ちると、行動や言動が私の知らないうちに変わっていて、
「あ、変わったね」
とか、「ようやく分かったんだね」とか言われる。
腑に落ちるって、とっても大事なのだなあと感じた。
でも、人間だからさ、腑に落ちるまで、意味わからないんだよね。
私がずーっとそうだった。
でも、気付けて良かった。
今、ようやくそう思えるようになってきた。