こえたい、越えたい、超えたい。
ここ最近私の心の叫び。
何をこえるのか、それは恐らく自分であり、世界であり、そして自分に戻ってくる。
自分の環境を自分の概念を、自分のすべてを超越したい、凌駕したい。
そういう欲求が湧き出てくる。
でも、その情熱を吐き出す術をまだ私は知らない。
だからこそ、ここ最近の私は物理的に吐き出しているのかもしれない。
過食症が治れば、過食症の人を救えるのだとただ単純に考えていた。
それはもしかしたら、大きな間違いだったのかもしれない。
過食症じゃない人が、過食症から救うことがあるということは、
それは必要条件ではないということ。
では、この経験をいかに昇華するか、という問題になってくる。
私は自らの経験にすべからく理由付けをしたいのだと思う。
そこに理由はあったのかも分からずに。
食事療法ですぐに治る人もいる、入院したって治らない人もいる。
ある一定の年齢になれば治る人もいる。
ひとつの症状をもってして、それがひとつの原因とは限らない。
そして、解決策はさらに枝分かれしていく。
私はどの枝を選びたいのか、そういうことだと思った。
雑草のように生えていく、分岐したものたち。
収束するのを待つ前に私はその枝をはし折らなければならないのかもしれない。
他人が提供するなにかではなく、自らの決断において。
誰かに、何かのメソッドに救ってもらおうだなんて考えは甘かったのかもしれない。
自らに覚悟ができていない状態で、何かに委ねようとする甘さ、それが露呈しただけ。
なにがいい、悪いじゃない。
人生は流されるものだと思っていた。
でも、本当は選び取る覚悟でないと生き抜けない、そういう設定のものかもしれない。
選び取る覚悟をもって流されるのはいい。
ただひたすらに流される、それは、命の消耗、ひいては無駄遣いと同じ。