今日は17日目。
ブルゴス滞在2日目。
今日はもう歩かない。
今日は巡礼者ホリデーなのである。
というのも、元よりブルゴスに2泊する気ではいたものの、昨日飲み過ぎて、非常に気分がよろしくない。
飲み過ぎ、食べ過ぎで、夜中に吐いてしまった…
もはや何をしにカミーノに来ているのか、全くもってよくわからなくなってきた。
私は、一体カミーノに何を求めてきたのだろう。
そして、何を期待していたのだろう。
期待をするから裏切られたような気持ちになる。
その摂理を分かっていながらも、未だに物事や他人に対する期待を捨てきれずにいる。
期待をしない、ってどうしたら出来るようになるのだろうか。
期待をしているということに気付く時というのは、期待を既にしてしまっている時だけなのだ。
期待をしていない時に、期待をしていると気づくことは出来ない。
当たり前のことのように思えるだろうが、この意識の働きをコントロールするということは至難の技なのだ。
一体、期待をしないということを意識的にするとはどういう風にやればいいのか、もはや全く見当もつかない。
今日は、昨日会った日本人男性(50)のお茶のお誘いを二日酔いを理由にお断りし、1人で朝からカフェ(朝のバル)に来て、いつものカフェコンレチェとサンドイッチを食べながら、ブログを書いている。
やっぱり他人といるととても疲れるのだ。
そして、昨日、久しぶりに過食して吐きたくなった時に思った。
この過食嘔吐は、痩せたいからではないんだということ。
自分の性質と全くそぐわない他人と長時間一緒に過ごし、エネルギーを奪われていることから起こるものなのだと、ようやく実感した。
そして、そういう目に遭った時に、感じる欲求は「過食嘔吐」ではなく、「過食」なのだということも。
過食嘔吐の「嘔吐」の部分は、過食によって太りたくないという精神から行われるものであって、ただの過食の付属品のようなものであったのだ。
過食をしたくなる時というのは、自分が「何か」を搾取されていると感じている時、自分が不公平な扱いを受けていると感じた時であって、それによって奪われたエネルギーを補いたくなる衝動が激しく沸き起こった時なのだ。
昨日は、ちょうど朝の7時から昼の3時まで、スイス人のおじいさんとずっと一緒に歩く羽目になって(それも自分の選択だったのだが)、
ものすごく疲れていた。
おじいさんの英語の訛りにも、英語のどもりにも、他の巡礼者のおじいさんに対する態度にも、いちいちイライラし通しだったのである。
ものすごく疲れていた。
足や身体の疲れは毎日であるが、そこに精神的疲れが重なると、人間を自分の世界からシャットアウトしたくなる。
みんな消えていなくなれ、と思う瞬間が来る。
だからこそ、みんながいるアルベルゲでなく、少々高くついてもホテルを2泊とってしまったのだった。
他の人間のいないスペースというのが、これほどに必要だと感じたのは久しぶりである。
私の人間嫌いの理由はここにあるのかも知れない。
知らないうちに自分のエネルギーを他人に差し出しているから、こういうことになってしまうのだ。
自分が犠牲者のような気分になってしまう。
だけれども、エネルギーを差し出すことを良しとしているのも、また私なのである。
きっとそこをどうにか出来ないことには、この逃げシステムに終わりは来ることはないのだろう。
一体、私はどうしたら自分のエネルギーをコントロール出来るのか。
ずっとそればかりを考えている。
エネルギーというものは、通常の人間には目に見えないものだ。
私の目にも、もちろん見えない。
だがしかし、存在していることは間違いないと考えている。
科学的に立証されないからとて、それが存在しない理由にはならないのだ。
エネルギーを奪わない人間、または、エネルギーを与え合える人間であれば、私は全く疲れることはない。
そういう自分が感じた経験が、エネルギーは存在するという考えを支えている。
少なくとも、私はそう信じている。
昔、ハワイ島を旅していた時に、あるサイキックのアメリカ人から面白い話を聞いた。
「何故、戦争には女性が性の相手としてついていくかわかるか?
その歴史は、書かれて残されているもの、残されていないものに関わらず、ずっと昔から続いているんだよ。
戦争で戦うということは、多くの場合、生死をかけて戦うことになる。
それはそれはものすごいエネルギーが必要になるんだ。
最初は、己のエネルギーだけでいいかも知れない。
それでも、戦争が長期化していくにつれて、皆のエネルギーは目に見えて落ちていく。
そういう時に、人はエネルギーを補充(交換)する必要が出てくるのだ。
士気を保つためにもね。
そして、その行為が性行為だという訳なんだ。
もちろん、性行為はエネルギーの交換だから、相手の女性も、エネルギーを得られるという利益はある。
彼女たちは決して搾取だけされている訳ではなかったんだよ。
現在を生きている多くの人々はそのことを全くもって認めようとはしないがね。
エネルギーを交換することによって、元の個々人のエネルギーを増大させることができるんだ。」
というものだった。
ものすごく興味深い内容だと感じた。
それでも、私の場合は常々、セックスでエネルギーを奪われたように感じることが多かった。
そのことについて、サイキックのアメリカ人に聞いてみた。
「それは、あなたが、エネルギーを受け入れることを拒否しているからだよ。
多くの場合、お互いがお互いのエネルギーを受け入れる準備ができていないと、片方が搾取し、片方が搾取されたように感じることがある。
そして、両方が双方を拒否している時は…最悪だ。
そんなことなら、性行為自体をすべきでないと私は思う。」
と返ってきた。
全くもってその通りだと思った。
私は、相手を精神的には拒否していながら、身体的には受け入れる、というチグハグなことをずっとしてきたのだと悟ったのだった。
だからこそ、セックスに楽しみを見出せなかったし、セックスという行為自体を尊重したこともなかった。
私にとって、セックスとはただの通過儀礼であり、日々の生活における儀式的なものでしかなかったのだ。
そういうことからもよく分かったのは、私はエネルギーを無駄に垂れ流し続けていた、ということだった。
そして、それを知った後でも、未だに方法は違えども、エネルギーを垂れ流し続けていたようである。
どうにかしなければ…
そういう焦りだけが全面に出て、結局、解決策は見つからないまま。
このカミーノで、私は何か解決できることがあるのだろうか。