Way to be HAPPY

Life is a Journey

正しいとか正しくないとかはない

すごく久しぶりのブログ。
今日は久しぶりに思うところがあって書いている。

人は、正しいとか正しくないとかで判断しがちではないだろうか?
その正しいか正しくないかは誰が決めているのだろう。
それは、その発言をしている本人の判断でしかないということに気づかない人が多い。

私は、他人に優柔不断だとか、意固地だとか言われることがある。
でも、それは、その発言をする人になんの意味があるだろうか。
それによって何か不利益をもたらしたのだろうか。
何故、人は自分の思い通りに他人が動かないとその相手を詰るのだろう。

私にとっては長年の疑問だ。
何故ならそういう人たちが多く私の周り存在していたから。
そして、私はそういう人たちから尽く逃げ回っていたたからかもしれない。

逃げる、とは良い表現ではないかもしれない。
でも、責め続けてくる相手をどうしたら良いのかわからなかった。
彼らは私が彼らの発言通りになるまできっとそれをやめないだろうから。

誰かの期待通りの人生を歩むことを私は放棄した。
誰かの期待に答えること、そこに意味はないと判断したからだ。
そして、そのような人生を送っていた日々を振り返っても意味がなかったからだ。

それでも、人は言う。
なんでそう意固地なの?と。

何と比べているのだろう。
それはあなたの意見と比べているのではないのか。
そう言う気持ちが募るたび、言い返すことさえ億劫で私は逃げた。
逃げるが、勝ちである。

今日、とある人から勧められたブログを読んだ。
世にも著名な方のブログ(しかも有料)だ。
読んですぐに気分が悪くなった。

それらしく書いているけれど、結局は他人が自分の思い通りにならなかったから責めている、
そう言う文章ばかりだったからだ。
あの人はこう言う時にこうだった。
あの人はこう言う時に私にこう言うことをしてきたから切った。
みんな私から去っていた。

そう言うことが書いてある。
文章的にうまい書き方だからもしかしたら気づく人はいないかもしれない。
けれど、結局はそう言う考え方がその現状を招いているのではないだろうか。
他責ばかりの文章で辟易してしまった。

正直、私はいろいろな人と疎遠になることがある。
でも、相手が間違っていたとか、相手のせいだとは思っていない。
そして、自分のせいだとも全く思っていない。

正しいとか正しくないとかは人間関係において存在しないと思っている。
要は、合うか合わないか、それだけなのである。

なのに人はそれを履き違える。
あの人が●●だったから、とか。

でも、そんなことはどうでも良いのだ。

今、そこにいなければ、自分で自分の人生に必要がないと判断しただけなのだから。
その判断にお互いに正しいとか、正しくないとかは存在しないと思っている。

他責より自責とか、綺麗な言葉があるけれど、
正直、何も責めなくて良いのではないかと思っている。

結果がどうなろうとも、その時その時の判断に責任を持てさえするならば、
全て、自分にとっては正しいのだから。