過食嘔吐は終わった。
そして、特筆すべきもう1つの「終わった」ことがある。
私の不安症である。
ここ数ヶ月前までの私は、
誰か地位や名誉のある人間に認められていないと自分が不安でしかたない病にかかっていた。
たとえそれが自分の体を差し出すことになっても、その不安を解消すべく、日々行動にうつしていたのである。
過去の私のブログを読めばすぐにご理解頂けることかとは思うけれど。
今思えば、滑稽で、バカだなこの女、で終わってしまうようなことなのだけれど、
今思うからこそ、当時の私はそうしていなければ「不安」で仕方がなかったのだと理解できる。
自分に自身がないから、自分に拠り所がないから、そういう地位や名誉のある人間を求めていたのだろう。
というよりも、その所謂地位や名誉のある人間から認められること、時には賞賛されることを望んでいたのだろう。
抜けてみればなんのことはない。
そんなの無意味なのだ。
それでも、その感情の最中にいる時はそれが必要だったのだ、それは認める。
そうでなくては、生きていけなかった私がいたのだから。
それでも、薄々気づいてはいたはずである。
彼らに会えばあうほど、賞賛されればするほど、虚無感で満たされていったから。
会った後に、あれだけ褒められて、あれだけ認められて、どうして私はこんなにも虚無を感じているのだろう?
と毎回不思議に思っていたのだから。
なんのことはない。
世間が認めたかもしれない、お金を稼いでいるかもしれない、日本でいう特権階級かもしれない、
でも。
そういう人に認められたからって、自分で自分を認めていなければまっったく意味がないことなんだと。
それに気づいたのはごく最近である。
もう1度言おう。
世間が認めたかもしれない、お金を稼いでいるかもしれない、日本でいう特権階級かもしれない、
そういう人間がなんだって言うんだ。
その人たちはそれはそれですごいのかもしれない、でも、その人たちの判断が私が私を判断する材料になるのか、
自分を認められる肥やしになるのかと言えば、
ならなかった。
以上
なんだよね。
私もそうだったから、そういう人たちに群がってしまう、人々(女も)の気持ちがわかる。
でも、私が実地で学んで理解したのは、
だからって自分で自分を認められなければまっっっっったく意味のないことだったということ。
もちろん、私の様々な経験は今、こうやって理解していることへの肥やしにはなっているので、
無駄だったとは言えない。
そして、無駄だったとは言わない。
それでも、いま、思っていることは、
二度と同じ轍は踏まないであろう、ということだけ。
私は愚かしいことに、その人々から賞賛や承認を得るために、
いったい何度自分の体を使用したか、、、ということなのですよ。
申し訳ないけれど、今思えば、もったいなくて仕方がないわ。
だって、私は、そんなもののために私の身体を差し出すほど、価値のない人間ではないもの。
本当に、自己価値観が低いとは、もったいないことなのかと。
私は、彼らに差し出すほど、低い人間ではない。
それを認識しただけで、もう十分だと思う。
私はもう、私が認めた人間とはお付き合いしないと決めている。
たとえ、一人でいる期間が何ヶ月、何年、となったとしても、
たとえ、私が女として、魅力を感じる歳ではなくなったとしても、
別に、だったらそれでよくね?と思えるほどに、今、わたしは、わたしを愛している。