Way to be HAPPY

Life is a Journey

筋トレとタンパク質量

半年間どんなに激しい筋トレをしようが、次の日(とその次の日も)筋肉痛に苛まれようが、まったく筋肉量が増えず、なんだかな〜と思っていたわたし。

 

勝手に世の中の筋肉セオリーはわたしには通用しないのねってひとりごちていた。

そして、ここ1ヶ月、まったく運動も筋トレもせず、毎晩浴びるように酒を飲む始末w

 

だがしかし、わたしの考えはまったくもって違ったということが、今日判明した。

 

昨日はジムで久しぶりに筋トレをして、今日はものすごい筋肉痛に襲われることを予期していた。むしろ期待さえしていた。笑

 

だがしかし、ほとんど筋肉痛はなく、快調な感じで起床。

 

「ん・・・?(何が起こった?)」

 

よくよく考えてみれば、昨日はこれでもか!というくらい「タンパク質」を摂取していたのであった。

 

筋トレ後にいつものプロテインを豆乳でシャカシャカして、1杯。

(タンパク質約30g)

 

そして、いつもだったらそのままあとはまったくタンパク質を摂らないという状態であった。

 

わたしの体重は52キロなので、本来であれば、筋トレをせずとも最低でも52gはタンパク質を摂取する必要があるのにも関わらず、いつも無視して30gしか摂っていなかった。(しかも筋トレ後)

 

普段に至っては、20g摂れればいいくらいの食事内容で、ほとんどが糖質(炭水化物)でカロリーを摂取していたのだ。

 

先日、病院の血液検査でも、タンパク質摂取量が少なすぎるとご指摘を頂いていたところであった。

 

そして、昨日はたまたま筋トレあとに、ラム肉を200g鍋にぶち込んで食した。

 

ちなみに、ラム肉は、

ラム肉もも(羊肉もも) 217kcal 0.1g 19.1g 14.5g

タンパク質量が、100g当たり、19.1g

なのだ。

 

そして、わたしは200g食べたので、38.2gものタンパク質を摂っていたことになる。

 

先ほどのプロテインと足すと、68.2gである。

 

筋力トレーニングをした場合、体重×1.5gものタンパク質が必要ということなので、

わたしの場合は、78gになる。

 

目標摂取量に対して、68.2g / 78g = 87.5% の量を摂取できたため、

今回の筋肉痛は起こりにくかったのかと思われる。

 

そして、やはりある程度まで、タンパク質摂取量と筋肉の増加量には相関関係があるようなので、これからは、今までの(無駄だった)半年間を反省して、もりもりタンパク質を摂取していきたいところである。

 

 

異端者

誰とでもやれる。

でも、誰も本気で愛せない。

それって、誰とでもやっているからかもしれない。

と思って、誰とでもやらないようにしてみたけれど、結局何も変わらなかった。

わたしはきっと誰も愛せないのかもしれない。

 

美味しいものを食べたい、良いホテルに泊まりたい、海外旅行に行きたい。

すべてを叶えてくれる人が何人かいる。

お金を求めれば、くれるであろう。(絶対嫌だけど)

でも、それって、わたしが「対価」を支払っているということ。

誰かと会うたびに、自分というものがそぎ落とされていく気がする。

 

何を食べても、どんなに良い部屋で寝ても、海外に居ても、何も癒されない。

 

本当に好きな人と一緒に居たい。

それなのに、本当に好きになることは決してない。

 

ダイバーエージェントという映画を見た。

ストーリーの中では、本来、5つに分類されるべきはずなのに、

分類できない人間が出てきてしまう。

それが、異端者である。

そして、異端者は追放されるか、迫害されて、殺される運命にある。

もしかしたら、わたしの世界でも同じことが行われているのかもしれない。

「普通」でないと判断されれば、忌み嫌われ、社会に馴染めなくなっていく。

わたしがそうだ。

被害妄想だとばかり思ってきたけれど、ここまでくると確実に違うと言える。

勉強は出来る、暗記も得意、仕事もすぐに覚えるし、誰よりも早い。

仕事上でコミュニケーション能力が高いと思わせるのも得意だ。

見た目も申し分ない。(はずである)

英語も問題なく話せるし、社会におけるマナーや礼儀もすべて「暗記」した。

面接で落ちたことは一度もないし、試験は受ければほとんど受かる。

(受かるやつしか受けていないと言われればそれもそうだけど)

それなのに、どうしても最終的に社会からあぶれてしまう。

わたしの思考回路を理解できないと思った人間からわたしを見る目が変わる。

別にサイキックな能力があるわけでもないのに、相手が何を思っているのかすぐわかってしまう。

被害妄想かと思いきや、振り返ってみればほとんどが「当たり」であった。

当たってほしくないことがことごとく当たってしまう。

 

それでも、要所要所で同じ「異端者」に見出され、助けてもらって生きて来た。

自殺もできず、オーバードーズでも死ねず、ウィルスに侵されてもさっさと完治してしまった。

死ぬこともできず、かといって、「生きる」こともできていないという為体。

 

そして、更に辛いことには、わたしが愛せる「異端者」に未だに出会えていない。

 

どうして、普通の人間のように生きられないのか、

どうして、こんなにも生きにくいのか。

 

まったくもって理由がよく分からない。

 

反省と後悔

反省はするけど、後悔はしない。

 

そのわたしの言葉にえらく感動していたとある経営者がいた。

 

反省と後悔は似ているようで全く違う。

 

反省は、「今」にフォーカスし、「過去」を活かすこと。

 

後悔は、「過去」にフォーカスし、「過去」に囚われること。

 

わたしの場合は、やってみてダメだったときに、「反省」を、やらずに逃げてしまった場合に、「後悔」をしやすいという経験則があるから、

「後悔」しないために、まずは何でも飛び込んでやってみることを大事にしている。

成功と幸せ

成功とは幸せになれる材料を数多くのうちから選べるようになるということだ。
だからとて人よりもたくさん選べるという訳でもないし、そして必ず幸せになれるというわけでもない。
幸せになる材料は見えない場所に落ちていて、成功していなくても見える人には見えるからだ。
それが見えなければいくら材料が揃っていても完成した料理にはならない。
幸せになるエッセンスは、目には見えないからだ。
人は幸せでない時に、幸せでない理由を求める。今、自分にないものに理由付けをするようになる。
成功したら幸せになれるという妄想は、成功していない多くの人々の欺瞞から生まれた。
成功してみたら分かるはずだ。
それが幸せに直結する可能性が如何に少ないかという現実に。

レストラン

彼と一緒にホテルのレストランに行くと、いつもマネージャーがヘコヘコ出てきて、良い席に連れて行ってくれる。

 

元夫と行った時には決して連れて行かれなかった席に。

 

積み重ねた信用と実力の違いなのかもしれないね。

ニューヨークやパリのレストランと同じ。

 

そして、必ずお土産をくれる。もちろんわたしの分も。

 

でも、決してわたしとは目を合わせない。

 

これは、毎回女が違っているからだし、わたしのことをもう二度と会わないと思っているからだと思う。

 

別にもう二度と会わないかもしれないけど、わたしを見てもバチは当たらないわよ。

 

そして、残念ながらまた会うのだよ、と思う。

SEXと金持ちと私

今日は昔の上司で独立後、大成功している方とお食事に行ってきた。

 

昔、上司だったときにやっていたことがある。そして、彼の盲目的な私への愛情表現に恐れを感じ、当時その上司とライバル関係(恋のw)にあった元旦那と結婚しちまったという経緯がある。

 

今日はさっさと帰るつもりで、下着はUNIQLO上下で揃えていた。笑

 

だがしかし、酔っ払った私はなんだか楽しくなってしまって、プラスアルファ満員電車が嫌すぎて、成金が大好きなエクシブ系列のホテルにご宿泊予定であった。

 

だが、うっかりやり始めてしまった時に気付いてしまった。

あ、また違うことをしてしまった…と。

 

そして、やり終えて爆睡している彼を置き去りに、さっさとタクシーで帰っている途中である。

 

次回があれば、是非学んで欲しい。

翌日帰る際のタクシー代は、翌日渡すべきであることを。

 

みんな、純粋で割と愛すべき人間だった人たちが、成功することによって何かが歪んできてしまっているように思う。

 

お金で私は買えないの。

ということを最近いろいろな殿方に示しているキャンペーンに突入した?のかもしれない。

 

途中で気づいた方は、ホテル抜きで、映画やら、差し障りのないランチに誘ってくれるようになった。

 

そういう態度は好ましいから、彼らは大事にしようと思っている。

 

昔は自信が無かったから安売りをしていた私だけれど、私はもう安売りなんてしない。

 

うっかりやっちまったけど、たまには若い奴とやってみたかったから、まあ、そこはよしとしよう。

 

私が欲しいなら、金じゃなく、純粋さを稼いで欲しい。

よしもとばななに出てくるような。

電車

お年寄りが電車で立っていたら優先席でなくても譲るのは「当たり前」

 

優先席にさっさと座って目の前のお年寄りを無視して動画を見ているおっさんは「恥さらし」

 

だよね。

近ごろの若者は、の代わりに言いたい。

 

近ごろのおっさんは。

意識のレベル

とあるサイトで、とある方にわたしの意識のレベルを見てもらった。

 

数値は、「671」

 

突出した、とても高いレベルなのだそうだ。

 

宇宙の魂を持つ子供たち「インディゴチルドレン」と同じなのだそう。

 

でも、もし、わたしがそうなら。

 

わたしには一体何ができるのであろうと、考えてしまう。

 

ある人にも言われた。

 

あなたはこれから人に教えていくのだと、ヒーラーになるのだと。

 

もし、わたしがそうなら。

 

わたしに何ができるのであろう。

 

今のわたしには何もできない。

 

わたしが、アフリカに井戸を掘りにいくのだと言ったら、

 

「そうではなくて、井戸を掘らせることのできる人間になりなさい。」

 

といってくれる人がいた。

 

つまりは、それだけの財力をつけろ、ということである。

 

そして、わたしがそうなるために援助はおしまない、とまで言ってくれた人がいる。

 

だからこそ、今、わたしは思う。

 

わたしのやばい過去に意味づけ出来るのは、このわたししかいない。

 

そして、それをするのは今でしかない。

 

だからこそ、わたしは絶対に、やりぬく、そして、やってやるということ。

 

わたしの人生

ここに来て、わたしの人生とは一体なんぞやと考えてみた。

 

ある人から見れば、辛く悲しい人生かもしれない。

 

ある人から見れば、実は羨ましい人生かもしれない。

 

でも、客観的に見るわたしの人生は、それを見た人々が歩んできた人生や経験から判断されるのであり、正しいか間違っているかという判断はさておき、好みはその人による、としか言いようがない。

 

それでも、なぜかすべて書いてしまいたくなった。

 

いつかこの記事は消すかもしれないし、一生残すかもしれない。

 

それでも、書きたい、そう今思ったからとりあえず書いておく。

 

0歳 生まれた時のわたしは本当に天使のようだったとみんなは言った。

 

3歳 末っ子で、かつ賢かったわたしはとっっても兄弟からすれば生意気なクソガキだったようだ。しかも丸々と太ったデブであったようだ。

 

5歳 この時の写真のせいで、結婚式の当日まで「あのままじゃお嫁にも行けないだろうしどうしようかと思った」と告白された。

それくらい醜かったということであろう。

 

10歳 デブじゃだめなんだ。痩せていれば色々な人から愛されるのか、と思い始めたわたしはダイエットを決意。お腹が減ったら氷を食べる日々。

確かに、痩せた。そして、痩せたら、モテた。

その経験がその後のわたしの人生を左右するとはその時はまだ分かっていなかった。

 

14歳 初めてセックスをした。人よりも一足先にしたかっただけ。好きでもない相手と、ロマンチックさのかけらもない野外でした。

 

17歳 過食嘔吐がスタート。友達に勧められて。それから365日12年間、吐かない日はほとんどない。

 

それからは、坂を転げ落ちるように落ちていった。

 

素晴らしく偏差値の高い大学に一発合格し、一人暮らしがスタート。

それでも、わたしのヤワなマインドは一人暮らしということに耐え切れず、少しずつ精神がおかしくなっていった。

キャバクラで働き、そのお金で過食嘔吐、もちろん大学へは行かない。という日々が続いた。

それでも、わたしの素晴らしい頭脳(?)は、適当な一夜漬けですべての試験をくぐり抜け、無事に単位は取れていた。まあほとんどが、「良」止まりで、「可」だらけであったことは言うまでもなし。

 

その途中で、ヤクザの彼氏をゲットしてしまい、途中から、ヤク中に。

「幸せ」ってこういうものなのか、って生まれて初めて感じたほどの幸福感・自己充足感だった。自分でも不思議なくらいに。

それでも、変なところで自制心が働いてしまうので、ポンプでやっていたにも関わらず、誰にも気づかれないまま過ごす。たまに死にそうにはなっていたけれど。

それを2年ほど繰り返していたある日、おばさんに気づかれ、そのことには全く言及されはしなかったのだけれど、家に連行され、説教され、おばさんの家に住むことになった。

 

実は、あのまま誰にも気づかれず生きていたら、わたしは今この世には居なかった。

 

だから、神さまってきっといるんだと思う。

 

つづく

ブリジットジョーンズの日記 映画を見てきた話

今日は身重の姉とレディースデイということで、近くの映画館で「ブリジットジョーンズの日記を観てきた。

 

1作目・2作目を昨日、Huluでしっかり予習してきてしまった私としては、

20時間ぶりに見るブリジットの歳のとり方(ルックス)に慄いた。

 

10年後の設定だったので、43歳のはずのブリジットが恐ろしく老けているではないか。というか、もはや「中年」ではなく、「初老」という言葉がしっくりくるレベル。

 

どうした、やはりアメリカ人(イギリス人のふりしてるけど)の劣化具合はやはり激しいものだったのか・・・!!

それか、本当は50歳くらいの彼女を43歳に仕立て上げたのか!と思っていたら、グーグル先生によると、御年47歳でございました。あんまり大差なし。

ということは、結論「彼らは劣化スピードが速い」ということですね。

 

スペインでよくアメリカンやヨーロピアンの野郎たちに言われたのは、日本人(というかアジアン)は、美しさの絶頂期がない分、劣化スピードが遅い。だから、40代でも50代でも綺麗な人がいるんだ。

確かに、そうかもなと思ってしまった。

彼らは、10代〜20代の間は「こいつ妖精か!?」と思うくらい、日本人が逆立ちしようが腕立てしようが、整形しようが、追いつけないレベルの美しさを発揮する。

が、30代後半くらいから、過去の栄光にしがみついて生きているのかしら・・・というほどの劣化ぶりを発揮し、40代からは見てられない化け物へ進化(退化?)していく人が多い。(※あくまでマジョリティのお話ですので、異論・反論は受け付けません!)

 

まあ、そんなことは置いといて、今回3作目で感じたのは、女って生き物はつええ。

それだけである。

特に妊婦に関しては、異常な強さを発揮している。

妊婦たちが意図していようが意図していまいが、私には彼らの異常な強さを感じる、ことが多々有る。そして、それは、別に心地いいものでは、決してない。

それは、善悪の問題ではない。良し悪しではないのだ。

わたしがそう感じるのは、現状で私が子供を産むという決断を下さず、一度も子供を産んでいないからかもしれない。

でも、そうだと言い切れない何かを感じるのは確かである。

生臭く、力強く、意地汚い、しかし、それでいて美しい力である。

 

いつか、わたしがその選択をするかもしれない。

 

それでも今はひたすらに恐ろしい存在でしかない。

 

見苦しいほどに美しい。

 

なんだかそういう言葉がぴったりなのである。