人生とは、命とは、なんなのだろう。
私たちは、いったいなんのために生きている、または生かされているのだろう。
疑問を持った人間からドツボにはまるように設計されているのだろうか。
この疑問を持たない人間は果たしているのだろうか。
幼い頃から感じていた違和感。
小学生の頃は、きっと私たちの存在をゲームの駒のように見ている「誰か」がいて、
私たちはその実験の駒でしかないのだと思っていた。
あの時はそれでよかった。
それがみんなが言う「神」という存在であるなら、仕方がないと思っていた。
でも、この人格でこの人生を生きるのは一度きりだと気づいたときから、
私は「死」というものを恐れるようになった。
私には私という人格があり、私が選べるのは私という人生だけ。
そして、それは一度きり、という設定。
その中で諦める、ということができなくなっていた。
正しくは、諦めているのだけれども、「死」という、私という存在が無に帰す設定に我慢ならなくなったと言うべきだろうか。
その設定をどうしてしてくれたんだという気持ちがものすごく強くなった時から、死というものを恐れるようになった。
いや、「無」というものが何よりも怖くなった。
いったいなんのために生まれたのかという「目的」をも与えられていない(というよりも自覚できない状態にさせられている)中で、
いったい私にどうしろと言うのか、そればかりが気になった。
そんなことを考えているような子供は、頭がおかしいのだと思われるのではないかと恐れていた。
だから、そんなことは誰にも言えなかった。
でも、人生を約30年生きてきて、もしかしたら、こういう感情になる人はいるのではないか、そう思うようになった。
だから、今、これを書いているのかもしれない。
きっと私以外の私のような人のために。