毎日がなんとなく過ぎていく、そのこと自体を憂う人はいるのだろうか。
死に対する渇望の中に、生への渇望を見出すことができる。
そのようにして一見関わりを持たない現象の中に結びを見つけることで、今を生きながらえている。
自分とこの外界の世界との結びは、死と生との間にあるもので形作られているのかもしれない。
自分を通さなければ、今私の外側に存在する世界を把握することはかなわない。
しかし、同時に自分という存在を介さないことによって、世界という存在をもっと広い視野を持って捉えることができる。
人を欺こうとする意思を持つことによって、人を欺かない神聖さを保つことが出来るのと同じくらいに、
世界は捉えようとしないことによって、この手の中に落ちてくるものなのだと思う。
足掻けば足掻くほど、溺れれば溺れるほど、更に生というものを鮮烈に感じ取れるように。
ベクトルは違えども、作用する力がものをいう。
無というのは無限であり、有るということが有限で有るように。