Way to be HAPPY

Life is a Journey

性的虐待2

最近はとても便利な世の中になったと思う。
リーディングも会社の会議だって、家にいながらPC覗くだけでできちゃうんだもんね。
飲み会だって家でPCと睨めっこでやっている人もいるらしい。
(WEB飲み会にはちょっと嫌疑的な私w)

PCの画面を通して久しぶりに会う彼女はちっとも変わってなかった。
3年ぶりくらいにお互いの顔を見たのだと思う。
彼女からすると私は、あの時よりもっと若く見えるらしく、
若くなったね!でも、より賢く見えるわ!と言ってくれて嬉しかった。
やっぱり何歳になっても若く見えるって言われるのは嬉しいものだ。
特に同性からだとより一層。

最初はまずオーラを見てもらった。
3年前もピンクと言われたけれど、今回もピンクだった。
そして、今は紫と濃い紫(赤紫?)も強く出ているとのこと。
私を助けてくれる存在がたくさんいるから、もっと彼らに話しかけて!
サポートを求めたら良いと教えてくれた。

そして、本題。
というかここまで来て、私は本当にその質問をしようかどうか迷っていた。
「私は本当に性的虐待を受けたことがあるのですか?」という質問だ。
その質問をするってことは、私の今までの行動や言動、全ての言い訳を探してるように自分には感じられるからだ。

私の過食嘔吐は、性的虐待のトラウマによるものです。(だから私は悪くありませんよ)
私の飲酒の問題は、性的虐待のトラウマによるものです。(だから私は悪くありませんよ)
そういう風に自分で言っているのではないかと思えるからだ。

でも、今思えばだけれど、それのどこが悪いというのだろう。
ずっと自分を責め続けるために、聞きたくなかっただけなのだと思った。
自分が悪くない、と言うことのどこが悪いのだろう?とリーディングを終えた今なら思える。

私の飲酒の問題、過食嘔吐の問題には、昔のトラウマが関係している。
と言われた時、ようやく聞くことができた。
「私は本当に性的虐待を受けたことがあるのですか?」

答えは、イエス
その状況や、何歳の時にされたのか、誰がしたのか、どうされたのか。
まで全て詳しく教えてくれた。

お父さんじゃなかった。本当に良かった。
身内でもなかった。本当に良かった。

お兄ちゃんの友達だった。私が当時6歳だったとしたら、14歳だろう。
背が高く、筋肉がある。そして、すごく性格が悪い人だと。
ちょうど誰の目にも届かないところで、それは起こったと。
身体を(個人的な部分まで)触られ、さらには自分のモノを出し、
フェラを強要した。

ってそれを説明するのも嫌だったと思うけど、とても詳しく話してくれた。
何故なら、それを知ることが感情の開放に必要なことだから。

本当にそこまでか?
と言うことまではちょっと聞けなかった。
その疑問に思った理由は、物心ついた時には私には処女膜はなかったから。
でも、言わないと言うことはきっとそこまでだったのだろう。
それ以上の行為を14歳がするとしたら、それは本当に犯罪行為だ。
(いや、フェラも犯罪行為なんだけど)

「彼に対して怒っても良い、恨んでも良いんだよ」と言ってくれた。
思い出せない相手を恨むのはとても難しいことなのだなと思った。
もう起きてしまったことを変えることはできないし、
もし起こらなかったら、と考えることももう無意味に思える。

その事件が起こるまでの私はとってもハッピーで面白くて、
常に人を笑顔にさせる存在だったのだそう。
その事件が起こってからはその幸せな部分を封印してしまったのだと。

それが起こる前と起こった後のあなたの写真を見てみると良い。
すごく良くわかるくらい表情が変わっているはずだから、と言われた。

そして何度も何度も繰り返し言ってくれた。
それはあなたのせいじゃない。あなたが悪かったんじゃない。
あなたにはなんの責任もない。
自分を責め続ける必要はない。
と。それを聞いて涙が止まらなかった。

私は自覚していなかった。
それでも、ずっと自分を理由も分からずに責め続けていた。
私なんていなくなってしまえば良い。
私は恥ずかしい存在だ。
これって生まれながらの性格だと思っていた。
でも、途中から植え付けられたものだった。

確かに、そこから私の過食が始まった。
そこから親が止めるまで食べ続け、親がお菓子を隠すようになった。
そこから私は太り出したのだ。
可愛くてはいけない。
醜くなければならない。
だから、太っていれば安心だ。
そう思っていたのかもしれない。

もう思い出せないけれど、昔の私は、天使のようだったと良く言われていた。
親の欲目、かと思っていたけれど、確かに私はどこに行っても、可愛がられていた。
知らない人が良くお菓子やおもちゃをくれた。(親が居るところでね)
私は自分が可愛いのを知っていたのだと思う。

だからこそ、それが原因でそうなったと思い、太れば(醜くなれば)もう同じことは起こらない。
と思っていたのかもしれない。

それが続き、小学6年になった頃に、モデル体系の姉に
「恥ずかしいから、街中で話しかけないで」
と言われ、デブはいけないことなんだと認識を書き換え、ダイエットに励む。
でも、潜在意識では痩せてはいけないと思っているから、なかなか痩せない。

そして、高校生の時に吐けば痩せると友達から聞いて、吐いたら痩せた。
経験が認識を強化し、そこから十数年吐き続けることになった。
そして、それでも自分の中で治りきらない感情が、24歳の時からの飲酒。
それが年々酷くなって今に至る。
ほとんどアルコール依存症だ。

すごいな。全てつながった。
自分が理解できていなかった部分がつながって、
今の自分に至ることが理解できた。

わかる(I see)ということがどれだけの感情の開放をもたらすのかということを体験した。
わかる(I understand) との違いをこの前アメリカ人に聞いていたけれど、
本当にこれは I see ! だった。

余談だけれど、アバターでも I see の意味のくだりがあったけど、
それと全く一緒なんだと思った。

性的虐待

心理学の本が昔から好きだった。
高校生くらいから心理学と名前のつく本は片っ端から読んでいた。
何故心理学が好きだったのかは、自分でも分からなかった。

幼少期の性的虐待がトラウマとなり、本人の人格形成に影響をもたらすことや、
それが過食症摂食障害)に繋がること、そして、多重人格を形成する恐れがあること、
そういうことが書いてあった。

私は数十年来の過食症だったけれど、その箇所を読んだとき、
自分は多分違う理由で過食症になったんだよな。だとしたらなんでだろ?
とずっと疑問に思ってきた。

だからこそ、この自分の過食嘔吐を治そうとスピリチュアルなものに、
お金を注ぎ込んで、時間も注ぎ込んできたのだ。

手相を読むサイキックの人に「過去に性的虐待を受けたことがある」とリーディングしてもらったとき、
え?まさか私が?そんなことない。だって覚えてないし、そんなことする人に出会った記憶もないし。
と思っていた。

この自分の中の感想は、かなり自分ででっち上げた言い訳なのが今ならわかる。
心理学を散々勉強していれば(していなくても)、その衝撃的な経験故に記憶を失くす、
または思い出せないようにするであろうことくらいわかるはずなのに。

いやー認めたくなかったんだろうなと今ならわかる。

そうやって自分の感情やら記憶やらに蓋をして、
その問題は放置し、数年が経っていた。

タバコの本数は増え、酒の量も増えた。
治っていた過食も数週間に1度のペースで帰ってくる始末。

朝は毎日二日酔い。
毎朝、だ。そろそろヤバイとは思っていた。
でも、お酒が止められない。

そんな日々が続いていたある日、
お父さんにいやらしいことをされる夢を見た。生々しかった。
私は良くお父さんとやってる夢、お兄ちゃんとやってる夢を見る。
起きた時の気持ちの悪さは想像を絶するものである。
お母さんが実家の犬を包丁で料理している夢を見た時よりも気分が悪い。

そこで思った。
もしかして、私に性的虐待をしたのは父なんじゃないかと。
あんなに大好きなお父さんにそんなことされていたとしたら、
それこそ多分私の精神は崩壊する。
お父さんのためなら私の命をちょっと(ケチw)だけなら
あげても良いって本当に思ってたから。幼い頃から。
お母さんのためにもあげられる。

そう思っていた相手に虐待を受けていたら?

それこそ怖くなって、のたうちまわっていた。
知るまでは、それは真実にはならない。
そういう考え方が私にはあるので、今回もスルーしよう。
そう思っていた。

それでも、ずっと頭から離れない。
このままじゃお父さんの目を見ることもできなくなる。
どうしよう。

もう真実を知るしかない。

そう覚悟を決めた時に、頭に浮かんだ人がいた。
いつも暖かく、愛に溢れ、私を心配してくれている人。
もう3年以上も会っていないし、そもそも2回会ったくらいなのに、
それでもたまーにメッセンジャーを送ってくれて、元気かどうか聞いてくれていた。
その人は、サイキッカーである。

プロに個人的なメッセージを自分から送ることに何故か罪悪感を感じるため、
自分から個人的に連絡したことは一度もない。

でも、この緊急時ときた。
「私をクライアントとしてみてもらえませんか?」
と一発目から直球勝負に出たのであった。笑

彼女は快諾してくれ、それから3日目の今日、
ようやく私の過去が明らかになった。

自分であって自分でない自分

私は自分のブログをたまーに書いた時に読み返す癖がある。

大体は酔っ払ってるからなんなのか書いたことさえ覚えていない。

読み返すときの心境は他人が書いたブログを読んでいるような感覚である。

でも、ああなるほど。と思う。毎回。

ああ、こいつ良いこと書いてるなーと思うw

自分が書いたもののなのだけれど、毎回自分に気づきを与えてくれる。

自分であって自分でない自分からの今の自分へのメッセージなんだろうな。

運動と精神

寄付って素晴らしいことだよね。このコロナで寄付すると世間がもてはやしてくれる。

私も寄付したいけど、とりあえずマイナスこいているのをどうにかしないと寄付さえできないよね。

と、これはお金の話だけど、きっと全ての事象にあてはまることなんだよね。

エネルギーとか愛とかまあ言い方はたくさんあるけれど、突き詰めてみればお金もエネルギーだし。

溢れてないと、有り余るくらい無いと、あげられないのだよ。

枯渇しているような人間はあげることさえ敵わないんです。

それが、今の私。

あれば、寄付するよ、していたし。

でも、無いのよw

その現実を作ったのももちろん私。

このタイミングでまた神との対話を読み始めた私。

25才で読むのと32才で読むのとちょっと違ったなーと感じた。

一度読んだ内容はほとんど忘れないんだけど、

こういうスピっぽいやつと漫画の内容はほとんど忘れるようにできているらしい。

初めて読んだ!くらいの感動があるからやっぱりすごい。

ナルトもすごい。

何度見ても感動する、それは忘却という機能と追加された経験のコンビネーションによる仕業かね?

人間ってすっごく上手く造られている。

最近はSTAY HOMEということで在宅だし、飲みにも行けないし、
いろいろ自分の時間ができている。残念なことに、自分を省みる時間もできてしまった。

神との対話をもう一度!読もう!
だなんて思いつく前に、
想像は創造なんだなーとふと日課になってきたランニングの間に頭に浮かんでいた。

それを再確認させてもらったのは、やはり神との対話という本であった。

ランニングの話をさせて貰えば、広くなりすぎた肋骨を狭くしようと整骨院に行ってみた。
ざっくり言えばくびれをこの間に作ってしまおうという浅はかな考えにより。

そこの先生がまたすごくて。
あーコリャー手からなんか出てるな感半端ない。
男なんだけど、多分ストレートではあるんだけど、でも、そういう感じの人。

まあそれは良いとして。
骨の位置がある程度正しくなった私は自分の肉体改造を始めた。
ついでに言えば、過食嘔吐が治った。

何がトリガーになるかは分からない。
でも、面白いことに、あ、ここが良くなったらもっと良くしてみようかなと思えるようにできているらしい。

それから私の謎な筋トレとランニングが始まった。

スピスピして精神だけどうにかしていくのももちろんいいとは思う。
肌をサスサスしてなんか良くなった気になるのもいいと思う。

でも、最近一番ああそうなんだなーと感じたことは、
誰かに良くしてもらう、そして、自分でも未来に対して働きかける、それってすごい組み合わせじゃない!?
今まではやってもらって、あー良くなったーって終わってたから、今、すごくそれを感じている。

骨格を直してもらった、あー良かったーじゃなくて。
自分でも自分の体に働きかけるの。
ストレッチをしたり、筋トレをしたり、走ってみたり。

体と心は繋がっていると良く言うけれど、
体を良くすれば少しは心も良くなる。
心を良くすれば少しは体も良くなる。
そして、心と体を一緒に動かすとスッゲー良くなるんだ!!
と言うことを理解はしていたけれど、体験できたのはきっとコロナのおかげかも知れない。

どっちかだけじゃ結局片手落ちになる。
どっちもやれば、何倍どころじゃなく何乗で返ってくるんだよね。

筋トレに溺れていても、
スピに溺れていても解決できなかった問題が
今までのスピードと桁違いに解決していく。

結局は行動によるものなんだけれど、
スピードが違うなーと気づいた。

お腹タルタルで健康です、何故ならスピ的な●●してますから。
みたいなのとはちょっと違う、健康的でスピ的な何かを経験できた気がする。

もちろんたまに落ち込むこともあるし、自暴自棄になる癖はゼロにはならない。
でも、運動ってそういう時のためにあるんじゃないかってくらい気分が変わる。
文字通り180度変わる。

そういう風に人間を作った存在って本当にすごいなーとひしひしと感じる今日この頃。

っていうか何書きたかったか忘れたし、もう満足www

愛を知らぬ人の行き着く先

他人を愛することはできる。

困っている人を助けることはできる。

家族のためなら死ねる。

でも、男性を愛することができない。

それが、私の問題だと思う。

性愛が関与するもの、それを無意識か意識的か排除しようとする自分がいる。

そういう意味で、異性である男性を疎ましいと感じる。

自分に不必要な存在であると感じてしまう。

私は私で完結してしまうから、異性を必要とする意味を見出せない。

これは、私の生まれ持ったか、記憶のない時期に刷り込まれてしまったかは、
分かりようがないが、今私が感じていることである。

何故男と女が引き寄せ合うのか。

私にはよくわからない。

社会では、そういうものだと教えられてきた、またはそういう風潮の中で生きてきたから、
私はきっと男性に魅かれなければならないのだとは理解している。

それでも、なお。

私にとっての異性とは私の存在価値を確認する術でしか無いのだ。

だからこそ、釣った魚に餌をやらないタイプの人と居ると急速に自分の自信をなくし、
自分の存在意義を見失う。

私は私であることに、誇りを持つべきなのに。

そういう考え方がどこで刷り込まれたかは判らない。
それでも、その考え方を自分から取り除くことができずに居る。

自分が認めていない人に認めてもらえないことに悶え苦しんでいる。

そして、同時に私は誰も認めていないのであとうことに気づく。

そうなると世界は地獄と化す。

自分を責め続け、何故自分は他人に認められないのだろうと思い悩む。

たった一人の判断基準に右往左往するハメになるのだ。

これはどういうことなのか、全く私には理解し得ない。

だからこそ、苦しい。

自分が認められていないと日々感じながら、生きていくことは至上の苦しみである。

ただ、それさえも、私の判断なのであろうことは理解しているつもりだ。

ただ、その思考回路をまだ私は排除し得ていない、ということなのだろうとは思っている。

本当の愛とは、何を指すのだろう。

そして、愛を語る人々がそれを本当に理解しているとも信じてはいないけれども。

Stay Hungry Stay Foolish 2

私は家事にも疲れ、仕事にも疲れてきた。

誰にも感謝されず、自分の存在意義を見出せなくなっていた。

当たり前にやっている人。

社内でも、家の中でさえもそんな感じになってきたからだ。

当たり前のことを当たり前にやらない人がいる中で、
当たり前のことを当たり前にやっている人たちが埋もれていく。

そんな環境になってきてしまったのだ。

そういう環境でどう人は自分の存在価値を見出せばいいのだろう。

私はドツボに嵌っていたのかもしれない。

私は何故ここでこのようなことをしているのだろう。
私はここで存在している意味があるのだろうか。

他人が楽をするために、私は身を粉にしているだけじゃないのか。

そういう疑問が頭をもたぐ。

なら、私なんて消えてしまえばいいと思った。

誰かが楽をして、成長から遠ざかるために自分が壊されていくのならば、
こんな世界なくなって仕舞えばいいと思った。

そんな中で、再び出会った動画がある。

ティーブジョブスの大学卒業生へ向けたスピーチである。

Connecting dots の件。

現時点では、その点が将来どうなるかはわからない。
でも、将来その時になって過去を見返せばそれが点ではなかったということが分かる。

というものだ。

今現時点の過去の私からしたら将来である私からみて全ての点は線となってつながっている。

そういうことを言っているのだ。

私があの時、あんな過ちを犯さなかったら今の私は存在してない。
そして、その過ちでさえも今の私から見れば必要な過ちであったことが今なら分かる。

そういうことなのだと思う。

そういう発見を再び認識すると、今、このよくわからない辛い、理不尽だという感情も、状況でさえも、
きっと未来の私からすれば、必要な苦労であり、辛さであり、忍耐であるのだろうなと思った。

そう感じた瞬間、今の私の蟠りがスッと消えていった。

そして、ずっと泣き続けていた今日。

必要なことは、辛いことでさえも、起こる。
そしてそれはきっと、未来の自分の糧になる。
更に言えば、未来の自分をより良く形作る糧になるであろう。

そう感じた。

今は、もう大丈夫。

私は、もう大丈夫。

この苦しみはきっと未来の自分をより良いものにするのであろう。

その周りにいる人々が今私の周りにいる人々でないにしろ。

だから、最後に特記したい。

Stay Hungry Stay Foolish

そうだよ、私はずっとハングリーなんだ。

Stay Hungry Stay Foolish

今日の私がこのブログに至るまでの話。

ここ最近はコロナのお陰で在宅勤務がずっと続いていた。 

ようやく私の部下を雇えた数日後、コロナの在宅勤務が始まった。

そもそも昭和感漂う会社で、ゆとり世代を馬鹿にするなよというくらいほとんど皆さん仕事をしていない。
そんな中、私は全国を飛び回り、毎日電話対応・事務処理を一人でこなす日々。
だって、みんなやらないんだもん。

できるからやる、それは当たり前のことだと思って生きてきた。
そして、できることはやる、そういう人しか世の中にはいないと思っていた。
少なくとも今までの私の世界には居なかった人種が私の人生に登場した。

できることさえ、やらないという奴しかいない会社に入ってしまったことが全てもの過ちだったのかもしれない。

ということで、在宅になってもほとんど一人で仕事をしていた。
新しく雇った人は、数日しか出社していないからやってもらうこともできない。
そして、会社の人は仕事をしない。

それでも、やはり家にいるのだから通勤時間はなし、マッハで仕事を終わらせるので定時にはフリー。
ということは、家事をする時間はできてしまう。
そして、彼は帰りが遅い。休みもほとんどない。

そういう日々を過ごしているうちに、私は疲弊していった。
在宅だから、時間があるから、やってもらって当たり前、お礼は言われはするけれども。
みたいな状況に置かれている人って結構いるんじゃないのかなと思う。

労働としての時間、移動の時間は減るだろう。
だがしかし、それと反比例して精神的な負担が増えていることに意外と気付きにくいのかもしれない。

私がそうだった。

会社でクズどもに会わなくていい分、気が楽だわだなんて最初は思っていたけれども、
なんてったって相手はクズだ、会わなくてもクズなのはひしひしと伝わってくるのである。

リモート環境もWIFIがないとかで整えてない社員は在宅で何をしているんだろう?
そういう疑問が頭を過るわけである。
まあ答えは、何もしていない。なんだけどね。
会社にきたってろくに仕事をしていない人間が、自宅で何をするというのだろう。

実際、彼らが出社しなくても会社は回っているのだから、
正直、不必要な人間でしかなかったんじゃないか疑惑が出てくる。
去年、同じ時の残業時間凄かったけど、一体何をしていたのだろう?
それに気づかない経営陣も同じ穴のムジナである。

そして、もう一つ。
同居している相手の話である。

もう、私が洗濯をして、洗い物をして、買い物をして、料理をして、掃除をしているのが当たり前になってきている。
私はできることをやらないのは、できない。
できるなら、やってしまう。
本当はやらなければいいのかもしれないけど、できるのにやらないことができない。
それは私の問題かもしれない。

でも、相手からしても、時間あるんだから、と思う場合も多いのでは?と思う。

時間があるのと、家事の負担を増やすべきなのかは別の問題なのだと思うけれど、
結構みんな一緒くたに考えがちだと私は思っている。

そして、私が陥った闇はそこだった。

7号食ダイエット〜1日目〜

ご無沙汰しまくっております。

最近、過食嘔吐をしなくなってから少しずつ体重は増え…

 

f:id:xphantasmagoriax:20200309081416p:image

 

53kgを突破!しました。

1年前の53kgと違うのは、

筋肉量!!これにつきます。

 

筋肉量が1.5kg落ちてからの同じ体重、

ということは、そのまま1.5kgが脂肪に変身したことを意味しております。泣

 

ということで、

ひたすら玄米食べるやつ

逆に言えば玄米以外については制限アリ

というダイエット方法を

穀物炭水化物怖い系元女子が試してみようと言うわけです。

↑ちなみに(元)がついてる箇所がポイントw

 

よし、宣言終わり!

 

あとはやるだけ。

正しいとか正しくないとかはない

すごく久しぶりのブログ。
今日は久しぶりに思うところがあって書いている。

人は、正しいとか正しくないとかで判断しがちではないだろうか?
その正しいか正しくないかは誰が決めているのだろう。
それは、その発言をしている本人の判断でしかないということに気づかない人が多い。

私は、他人に優柔不断だとか、意固地だとか言われることがある。
でも、それは、その発言をする人になんの意味があるだろうか。
それによって何か不利益をもたらしたのだろうか。
何故、人は自分の思い通りに他人が動かないとその相手を詰るのだろう。

私にとっては長年の疑問だ。
何故ならそういう人たちが多く私の周り存在していたから。
そして、私はそういう人たちから尽く逃げ回っていたたからかもしれない。

逃げる、とは良い表現ではないかもしれない。
でも、責め続けてくる相手をどうしたら良いのかわからなかった。
彼らは私が彼らの発言通りになるまできっとそれをやめないだろうから。

誰かの期待通りの人生を歩むことを私は放棄した。
誰かの期待に答えること、そこに意味はないと判断したからだ。
そして、そのような人生を送っていた日々を振り返っても意味がなかったからだ。

それでも、人は言う。
なんでそう意固地なの?と。

何と比べているのだろう。
それはあなたの意見と比べているのではないのか。
そう言う気持ちが募るたび、言い返すことさえ億劫で私は逃げた。
逃げるが、勝ちである。

今日、とある人から勧められたブログを読んだ。
世にも著名な方のブログ(しかも有料)だ。
読んですぐに気分が悪くなった。

それらしく書いているけれど、結局は他人が自分の思い通りにならなかったから責めている、
そう言う文章ばかりだったからだ。
あの人はこう言う時にこうだった。
あの人はこう言う時に私にこう言うことをしてきたから切った。
みんな私から去っていた。

そう言うことが書いてある。
文章的にうまい書き方だからもしかしたら気づく人はいないかもしれない。
けれど、結局はそう言う考え方がその現状を招いているのではないだろうか。
他責ばかりの文章で辟易してしまった。

正直、私はいろいろな人と疎遠になることがある。
でも、相手が間違っていたとか、相手のせいだとは思っていない。
そして、自分のせいだとも全く思っていない。

正しいとか正しくないとかは人間関係において存在しないと思っている。
要は、合うか合わないか、それだけなのである。

なのに人はそれを履き違える。
あの人が●●だったから、とか。

でも、そんなことはどうでも良いのだ。

今、そこにいなければ、自分で自分の人生に必要がないと判断しただけなのだから。
その判断にお互いに正しいとか、正しくないとかは存在しないと思っている。

他責より自責とか、綺麗な言葉があるけれど、
正直、何も責めなくて良いのではないかと思っている。

結果がどうなろうとも、その時その時の判断に責任を持てさえするならば、
全て、自分にとっては正しいのだから。

アガスティアの葉 全てを聞き終えて

今日、ようやく2年半もの月日を経て、
64回の寺周りを終えて、
アガスティアの葉1章、全てを聞き終えた。

今、感じていること、それは「無」である。

私は詰まるところ、ずっとこの2年半アガスティアの葉に逃げてきたのだと知った。

アガスティアの葉を開いて、全ての人生を知れば、
きっと私はこの人生というものに意味を見出し、
きっと私はこの人生にやる気を出すはずだ!とずっと思ってきたのだろう。

その反動が、「無」である。
後日、全文をさらにアップしようとは思っているけれど、
その前に今日の気持ちを書き記しておきたいと思う。

初めて、アガスティアの葉を大阪に開きに行ったのが、
2017年5月のことだった。

私の葉であることが特定されて、
先生は何やら紙に書き出していた。
私はそれを見ていた。
そして、その紙には、72才のことまで書かれていた。

ということは、だ。
今日までまるで気づいていなかったのだけれど、
その時点で私の人生は全て先生には読めていた、ということである。

それでも尚、全てのカルマ解消後でないと続きは教えない、
アガスティア聖者は書いていた。

何故なのか、今ならわかる。

私のこの性格のせいである。

もし、あの時全て私に話してしまっていたら、
カルマ解消で64週間土曜日に神聖なる場所(神社とか)でお祈りなんてこの私がしたであろうか。

答えは、否である。

ただでさえ飽きっぽい、気の変わりやすい私が、続けていたとは思えない。

先生でさえ、こんなパターンはほとんどない(普通は大体1回目で人生の大まかな全容を知らされるのだ)と言っていた。

それは単にこの私の性格をもちろんのことながらアガスティア聖者は知っているからだったのだろう。

そのおかげで、この長い苦行のようなお勤めも、未来を知りたい、その一心で無事に終えられたというわけである。

アッパレだよ、本当に。

そうして、大まかではあるが人生の全容を知った今。

何を思うかというと、結局は私は私を生きなければならない、という当たり前の事実であった。笑

私は、この自分の感情の起伏や、落ち込みやすさ、精神の弱さに辟易していて、
それらは葉を開くことでどうにかなるもんだと期待しまくっていたところがある。

なんだか、アガスティア聖者にこう言われたようだった。
「お前の人生なんだから、お前が全責任を追ってきちんと生きていけ」と。

まあ当たり前のことなんだけれど、今日、この日までの私は違った考えを持っていたのだと思う。

全て他人任せにして、自分の人生なのに、傍観者でしかなくて、
早くこの人生が終われば良い、それしか考えていなかったのだ。

何もやる気がでず、ただ、生きていくために生きている日々。
そんな日々を終わりにすることを心待ちにしていた。
それが、今日という日なのだとずっと勘違いをしていた。

だから、「無」なのである。

今日、ある意味、その現実を身を以て理解した今。
ある意味、生まれ変わったとでもいうべきだろうか、
結局は自分の人生のケツは自分でふかないといけないのである。

内容としては、なかなかどうして良いものだったように思う。
お金も得るし、裕福にもなるし、結婚もできるし、海外旅行もかなりいくようだし、
ある一定の年になれば、ずっとやりたかった自営業もできるし、
私が思い描いている未来、そのものに近かったように思う。

だから、ずっと英語に恋焦がれ、誰に勧められたわけでもなく、
良く分からない理由で英語を学んでいたのかと思うと、
まあきっと潜在意識は全て知っているんだろうなとも思う。

ちなみに将来やる自営業はスピ関係だそう。
将来の夫が協力的で、一緒にやるかも知れないと。

でも、嬉しくないのは何故なのだろうか。

グルにでもなりたかったのだろうか、私はw

子供については、産むチャンスはあるけれど、
あなたの体力と、精神的な弱さとを鑑みてしっかり決断しなさい、と言われている。

世の中にバンバン子供を産んで育てている人や、
若くて何も考えずに産んだ人、歳をとってようやく産めた人、
いろいろいるけれど、私はそういう人たちよりも劣っているのかも知れない。

産むことが全てでもないし、産めばすごいってわけでもないけれど、
そこに対してハードルが高い私の精神の弱さには再認識したけれど、ちょっと引いた。

でも、こればかりはそんな自分で選んだ弱い精神と一緒に生きていくしかないのだと思っている。

ちなみに間違いなく、今のこの精神の状態で子供を産めば、
きっと私は精神病院に行くか、子供が病院送りになるであろうことは、
その話を聞いた瞬間に未来を見るかのように、ありありと見えてきた。

何故こうも普通の人が普通にできることが私には難しいのだろう。

そして、アガスティアの葉のセッションでは、通常読んだ時から未来しか語られないが、
しっかり私の過去も書かれていることを初めて知った。

私が大学時代に薬をやっていたことも、キャバクラで働いていたことも、
子供を堕したことも、もっとやばいことをやっていたことも、
インドの先生は全て知っていた。

ごまかそうとしても、もはや無駄なくらい、書いてあるのだそう。笑

それでも、不思議なことに、夜のバイト(クラブとか)は週1とかなら、
精神に異常をきたなさいから、バランスさえとれば、やってみたら良いと言われた。

この年でそれをする選択ができるかどうかはかなり謎だけれど、
なんて現実的なアドバイスもするんだろう、アガスティア聖者よ、とちょっぴり思ったのであった。

そして、もう1つ、
ivarnaという人の西洋占星術ではあるが、ソウルメイトに関して受けたリーディング(これがすごい精度と量なのだ)
では、2020年の夏から2021年の夏の間に出会うと書いてあって、
インド占星術を元にしているアガスティアの葉(まあどっちが先って言ったらアガスティアだろうけど)と、
時期が一緒であったこと。それは、もう占星術を超えてリーディングされてるのだろうとは思うけれど。

その相手は日本人ではないことと、私が人生を通して海外を旅することと、なんとなく共通点があるものなんだなあと思った。

というわけで、結局未来を知ったって、生きていくのは私でしかないから、
明日からまた精一杯1日1日を生きるしかない、ってわけでございます。

ああ、もう寝よう。