Way to be HAPPY

Life is a Journey

酔ったついでに

昔のブログを読み返していた。

スペイン放浪記の。

今思えば超絶忘れていたけれど、私はずっと英語を聞き、英語で話していたのだなあと。

そんな自分を忘れ、なぜかまたECC英会話学校に通うことを決意。

ENVISIONというやつね。

で、一番上のクラスに配置。

で、この前初めて参加したのだけれど、そもそもout of orderの意味を知らない人のせいでその説明がスタート。

いったいどうなっちゃってるんだ?と疑問だった。

そのあと帰ってきた入学時のTOEIC みたいなテストの点数が満点の90%の点数。
リスニングもリーディングも。

数十万支払ってはみたけれど、意味がないことにようやく気づく。

結局彼らは私をどうしてくれるんだろうか。

アルコールの方が私に英語をしゃべらせてくれるだろうよ。

もうお金がそろそろ尽きてしまうというのに、尽きるような行動を常にしたがる私はいったいどこを目指しているのだろうか。

この前また歯が2本お亡くなりになりまして、数十万の出費。

お願いだから、これ以上私の歯よ、消えないで・・・

Amazing Grace

つづき

その日、藤田さんは私にグレイスという言葉をくれた。
正しくは、教えてくれた。

もちろんGraceという言葉自体は知っていたけれど、
本当の意味で、知ったというか、感じたのはきっと初めてだったと思う。

そして、なにかその言葉にまつわる自分の気持ちを持ち上げるテーマソングを
探してくださいと言った。

いろいろ調べてみたけれど、単純な私はそのままこの歌を採用した。笑

Amazing Grace, How sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost, but now am found
T'was blind but now I see
T'was Grace that taught my heart to fear
And Grace, my fears relieved
How precious did that grace appear
The hour I first believed
Through many dangers, toils and snares
We have already come.
T'was grace that brought us safe thus far
And grace will lead us home,
And grace will lead us home
Amazing grace, Howe Sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost but now am found
T'was blind but now I see
Was blind, but now I see.

単純すぎる私。
でも、この歌はいつも夜中に大声で歌い出す時に歌っていた曲だった。

その時は発音だけで、そこまで意味を深く考えたことはなかった。

今日改めて歌詞を読んでみた。

勝手だけれども、まさに私の為の曲である。

Was blind, but now I see.

さっきの「抜け感」で伏線をはっていたのがお分りいただけるであろう。笑

We have already come.

あたりも「抜け感」に通ずるものがある。

そして、今日も真夜中に大声で歌い出す私。

RCで良かった。

メイクも人生も「抜け感」が大事

最近気づいたけれど、このブログはどっぷり浸かっている時にしか書かないので、
どうやらいつも人生どん底人生お披露目ブログと化していたなあと気づいた今日この頃。

まあ、その傾向はいつになっても終わらない可能性大だけれども。

ということは人生が上向く時、それは、ブログの更新頻度が減る時なのだということなのかもしれない。

そんなことはちょっと寂しいので、元気になった私が今日ブログを書くよ。

ここ最近のブログのとおり、どっぶり悲壮感にひたってどん底人生に浸っていた私。

2日前、ボディートークに行くまでは。

行くまでは! ←これな

私は、私の人生のテーマを「引き受けた」と思い込んでいただけで、
本当は上辺しか引き受けていなかったこと。
でも、この説明って、一番最初にされていたら、絶対に、

そんなことないもん!!私、頑張って生きてきたんだもん!!ムキーーーーーー

ってなっていたと思う。笑

そのテーマを引き受けること。

そして、自分の美しさを受け入れること。
自分は美しいのだと心から思えること。

これを藤田さんから言われたとき、ちょっとビクついてしまった。

でも、ちやほやされて生きてきただけで、それをやってしまうとただの「傲慢」になってしまうけど、
私の人生の経験があるから、きっとそうはならないはずだと言ってくれた。

だから、自分の美しさを受け入れていいのだと。

自分は美しい、自分は醜い、自分はかわいい、自分はみっともない。
自分の外見について考えるたびに、
いつも光と影のように真逆の概念が思い浮かんでいた。

自分を美しいと思う時、同時にそんな風に思う自分を醜いと思っていた。
自分を醜いと思う時、そんな自分を美しいのだと思う自分がいた。

まったく相反する概念が頭の中に浮かんで、いつもぐっちゃぐちゃのカオス状態。

それを、もう終わらせていいということなのだなと思った。

そのまま、自分を美しいと思ってもいいのだな、と。

美しいって、
外面の美醜だけではなく、もちろん内面やその人がもつオーラ的なものも全てひっくるめて形容されるときに使われる言葉なのだと思う。

そうでありたいし、そうなれるように努力していける自分でありたいと思った。
(今日はあと1時間というところで過食嘔吐してしまったけど、なんか心境にすごい変化はあったし、きっと大丈夫でしょ!)

ということで、今日は気持ちよく寝ます。

題名まったく関係なくなってるけどw

つまりは、トンネルを抜けて初めてあー私今トンネルというものの中に入っていたんだったー
とわかるような感覚、それを「抜け感」と名付けました。

暴発危機迫る

最近めっきり生きる気力がございません。
会社に行くまでは自己充足感ってやつ?満杯なのだけれど、
出社して数時間後、気づくと途中で叫びだしたくなってるよね。笑
満足はしていない。
でも、人ってたいていこうやって生きてるんでしょ?
こうやって自分を騙してごまかして生きてるんでしょ?
でも、そう思っても、もうちょっと限界がきている。
もはや、叫びたい。
叫びだしたい衝動との戦いの日々。
自分の中の暴発しそうなエネルギーとの戦い。
で、帰宅後過食嘔吐してそこらへんを回避。
こんな人生でいいのか私。
そういう感情が日に日に強くなっている。
かといって、さしてやりたいこともない。
どういう罰ゲームなんですかね、これは。
もはや喜劇からの、悲劇モード入っちゃいますがな。
自分をごまかしていると言ってしまえばそれまで。
でも、どうなにをごまかしているのかが分からない限り、それは回避不能な訳で。
辞めてしまえばいい、という問題でもなく。
辞めなければいいという問題でもなく。
いったい何が私のしたかったことなのかがもはや不明。
こんなんじゃどうしようもない。
生活もお金も身分も地位も保証されていた人間が、
そういう保証がなくなったら更にやれなくなるんじゃないか説出てきちゃうよね。
でも、そろそろ暴発間近。
どうにかこうにかして、どうにかこうにかせねばならぬ時が近づいているのはわかる。
で、私、一体なにをしたらええの。

洗脳

こんばんは。

心の遮音等級1級のレイでございます。

 

人生嫌すぎて現実逃避に横浜に行ってみたら、

山下公園で「あのーレンさんですか?」と話しかけられた私です。

惜しい・・・だが違った。

というか、レンって誰だよw

 

そんなこんなで、ただ今絶賛現実逃避中でございます。

たまには必要よね。

 

3日前。

かなり久しぶりにクレアボヤントのヨーコさんに会いに行った。

私は現状の人生になんの問題も感じていなくて、

1年以上もう行っていなかった。

 

というのが実は錯覚だったんじゃないか疑惑浮上。

ふいに仕事中彼女のことを思いだして、ブログをチェックしてみたら、

どうやら浅草のフェアに出展することが発覚。

いつも満員御礼だから、きっと今回もそうだろうなーと思ったけれど、

一応連絡してみた。

 

で、返ってきた返事がこれ。

あー来ると思ったんで、空けてありましたよー。

数時間前に思いついて連絡しただけなのに、いったいこの人何者?

ということを再確認。

 

ということで行ってきましたセッションに。

 

結果としては、まあここ最近私は感情も落ち着いてきたし、

もう大丈夫!と思っていた、それは錯覚でした。

というか、洗脳に近い状態で何も感じなくなっていたということのよう。

 

確かに、ありえないミスはするし、

現実味がまったくなかった。生きている感覚さえなかった。

でも、それが人生じゃん?って思ってた。

でも、それは大間違いだった。

ということに気づくのは、指摘されて初めて気づくんだよね。

 

ほとんど私という核はもはや残っていない状態。

エネルギー的に見たら、の話だそうなのだけれど。

とうことは、私がここ最近私だと思って生きてきた、その私はほとんど私ではない誰かだったということ。こんな恐ろしいことはないよね。

まさか自分がそうであると夢にも思わなかった。

 

でも、人間って気づいてからの反応は早いようで、

気づくまでが危なかったように思う。

一旦夢から覚めると、あーあれも、これも、それも、夢だったのねーと気づく感覚と似てる。

あーそれは、私の判断ではなかったのね、とか。

あーその感覚は違ったのね、とか。

最近直感がまったく働かなかったのも、それかーーとかね。

 

普通、一個の体には一個の人格というかエネルギーがあって、

本来ならそれは身体にあうた魂というかエネルギーが配置されているそうなのだけど、

最近の私はもはやキメラ状態で、1/4は本来の私なのだけど、残りは違うものひっつけちゃってる状態だったらしい。

 

温熱でも言われていたことを思い出した。

あんた、また変なの引っ付けてきたねーと。

2人いるうちの1人は敏感過ぎるからか、そういう人に会うと咳が止まらなくなってその場から瞬殺で居なくなるクセがある人で、そういうえばその時私に触れた直後咳き込んで二度と私には近づかなかったなーとか思い出した。

その別のもう1人の人が払ってくれたのかとばかり思っていたのだけど、どうもそうでもなかったらしい。

 

話は過去に戻る。

昔書いたブログに私がエイリアンと契約をしているから私のリーディングはもうしたくないと突き放した人がいる。

あれは彼女の勘違いと思っていたのだけれど、ここに来てどうやらつじつまが合ってきたのだと気づく。

私のエネルギーは私由来のものとそうでない何かが最初からくっついていて、それで一つのように生きてきた節がある。

所謂エネルギー的な二重人格のようなもの。

それが最近では、手に負えなくなって3/4にまで膨れ上がってる説が浮上。

だからこそ、ここ最近の私は、常々

わたしって誰なんだろう

という疑問が毎日湧いていた。

気力もなさすぎて普通の人にいつも大丈夫かと聞かれまくっていた。

でも、本人は何言ってんのこの人、と気付いて居なかった。

それを洗脳なのだと指摘されて、なんとなく腑に落ちた。

気づけば、わかる。教えてくれれば、わかる。

でも、それでも気づけない状態でいるときには何の疑問も湧かない。

それをきっと洗脳されている、というのだと思った。

 

さて、どうしようかね。

 

 

 

 

 

なんで明日は来るんだろう

朝起きてがっかりする

 

また同じような日々が始まるのかと

 

朝が来て喜びをもって迎えていたわたしはどこに消えちゃったのだろう

 

幼いころのわたし

 

今の私といつ入れ替わってしまったのかな

過食嘔吐撲滅計画

と、いうことで、過食嘔吐が著しく増加している私は、
使えるものはすべて使ってやろうという気になり、
数日間一緒に過ごしてほしいと彼に言ってみた。

頑なに結婚はおろか、同棲も連日泊まるのも嫌だと主張しまくっていた女が言い出したことに、
ひたすら驚いていたようだけど、快諾してくれた。

言った当人は、それからオロオロとあ〜やだなーなんであんなこと言っちまったんだろうと後悔の日々。

で、今日がスタートなのだけれど、
まあ、めっちゃ諦めがついた。過食嘔吐することに。

ある意味いい習慣変更計画になったと思う。

同棲とかは絶対に無理だと思うけど、数日ならきっと耐えられるはずである。

と書きながら気づいてしまった。

きっと、この数日計画が解消されたその日にまたやらかすのだと。

やっぱり自分でもう大丈夫だと思えないと、きっとこれはどうにもならないことなのかもしれない。

ああ、長いなこれからが・・・辛たんである。

最近気づいたのだけれど、私には人を好きだとか、愛するだとか、
そういう一切の感情が欠落しているのかもしれない。

一緒に居たいなどと思えないのは、彼がそれに足りる存在でないからなのか、
それとも、私は誰にもその手の感情を抱かないのか、それもまた謎。

吊るしあげ

えっと、再び過食が常習化してきているところです。
やっぱり習慣というものはなかなかどうして抗えないところは多分にある。
或る日突然治るとか、そういう類のものではないことを確認。
なぜなら、13年間続いた習慣ですからね!
という言い訳はさておき。

まあ、もう、本当にちょっと過食飽きてきたところはある。
この飽きるという感覚はすごい。今までまったくなかったから。
要は、ここ最近の私は暇だからなにかにかこつけて過食嘔吐をしていたという訳なのかもということ。
まあ、日々、抑えきれない感情や憤慨、じだんだ踏みたくなる癇癪との戦いとかあるけれど。

今日ももはや地団駄踏みたくなる衝動に駆られ、まあ駅を半泣きでひーひー言いながら帰ってきた。
もはや過呼吸「風」である。
私ってきっと過呼吸にはならないのね、でも、過呼吸「風」をやってみたい私がいた。

もうなんでもかんでも、すべてにおいて悔しい感情が噴き出してきた。
なぜ、私はここにいるのか、なぜ私はこんなつまらない人間と働いているのか、
なぜ、私はそこから一歩踏み出す勇気を行使することもせずただ安楽に逃げているのか、
で、結局仕事に憤っているのか。

今日は、もうどうしようもない凡ミスを犯したばかりだったからということもある。
というか、それでしかない。
送り先が2件あって、中身逆に送りつけたというくそみたいなミステイク。
自分でもびっくりするのだけれど、これ実は2回目。
どうしたら、そんなミスができるのか、もはや我ながら驚愕。
そんで、自己保身のため最近上司になった奴に本社に報告された挙句に、
社内allメールで槍玉にあげられるという始末www

みんなに嫌われている上司を私がどれだけフォローして、
みんなとの仲をつないでやったのかどうやらわかっていないらしい。
(3名ほど奴を名指しでやめていった事実は消せないからね)
というか、そういう気遣いをした事実も含めてもろもろ自分のすべてが嫌になった。

なんのためにやっていたのか、なんのためにやっているのか。
もう何もわからない。

handmaid's tale 侍女の物語

ここ最近、魔法系アニメとのサンドイッチで見ているのが、このドラマ。

原作がどうやら小説にてあったらしい。

腹ただしいことこの上なしな設定なのにも関わらず、ついつい見てしまうドラマ。

舞台はアメリカ。

子供ができなくなって、子供を埋める能力のある女性を拉致監禁(に近い)して、
とある宗教の名の下にレイプして、孕ませてオッケーという、
いかにも日本人が好きそうなAVみたいな設定の話。

というか、きっと世界中の男性がこの設定に萌えってするんだろうなと感じた。

見ていると、腸が煮えくりかえるほどにイラっとする。

でも見てしまう、なぜなんだ?とかなり疑問だった。

セリフの中で出てくる、Men don't changeがすべてを物語っていると感じた。

原作の作者についてよく知らないが、きっと女性なのだろう。

なぜこんなにも女性は虐げられなくてはならないのか、ひたすらに疑問だ。

レイプされるとか、されないとかはさておき、
むしろ精神的にレイプされているような気持ちになる日本の社会や会社。

恐らくそれはマウントしないと、自分の地位を確立できないというメンズの意識の賜物なのかもしれない。

人間は怖れる対象を虐げる。動物もそうかもしれない。数やそれに類するような状況が可能な時に。

だからこそ、私はこの日本で、女として生まれたことを恨んでいる節がある。

事務職は女性と未だに決まり切っている日本。(他国のことは知らん)

なぜ無能な奴らを私がサポートしてやらねばならないのかという気持ちに襲われる、雇われ社員状態の私は、
エブリデー殺意を抱いている始末。

そして、その殺意は巡り巡って自らに向かう。

こういう状況をどうにか打破したいのに、できない。

それは、自分が女性であることを利用しているからかもしれない。

女性だから事務職かと、そう思っていた自分の判断
ミスかもしれない。

だれか尊敬できる異性がいたら異なった結論になったのかもしれない。

ただ、穴に自分の逸物を突っ込んでひたすらによがっている、
でも、体勢的に自分の上側にいる奴らを私はひたすらに憎悪していたのかもしれない。

そういう経験が、感情が吹き出して仕方のない今日このごろ。

女は子供を作る機会ではないのだよ。

産みたい奴は産めばいい。
でも、産みたくなければ、産まなくてもよくね?と思う。

そういうことを考えさせられるような作品。

叫びと気づき

こえたい、越えたい、超えたい。

ここ最近私の心の叫び。

何をこえるのか、それは恐らく自分であり、世界であり、そして自分に戻ってくる。

自分の環境を自分の概念を、自分のすべてを超越したい、凌駕したい。

そういう欲求が湧き出てくる。

でも、その情熱を吐き出す術をまだ私は知らない。

だからこそ、ここ最近の私は物理的に吐き出しているのかもしれない。

過食症が治れば、過食症の人を救えるのだとただ単純に考えていた。

それはもしかしたら、大きな間違いだったのかもしれない。

過食症じゃない人が、過食症から救うことがあるということは、
それは必要条件ではないということ。

では、この経験をいかに昇華するか、という問題になってくる。

私は自らの経験にすべからく理由付けをしたいのだと思う。

そこに理由はあったのかも分からずに。

食事療法ですぐに治る人もいる、入院したって治らない人もいる。

ある一定の年齢になれば治る人もいる。

ひとつの症状をもってして、それがひとつの原因とは限らない。

そして、解決策はさらに枝分かれしていく。

私はどの枝を選びたいのか、そういうことだと思った。

雑草のように生えていく、分岐したものたち。

収束するのを待つ前に私はその枝をはし折らなければならないのかもしれない。

他人が提供するなにかではなく、自らの決断において。

誰かに、何かのメソッドに救ってもらおうだなんて考えは甘かったのかもしれない。

自らに覚悟ができていない状態で、何かに委ねようとする甘さ、それが露呈しただけ。

なにがいい、悪いじゃない。

人生は流されるものだと思っていた。

でも、本当は選び取る覚悟でないと生き抜けない、そういう設定のものかもしれない。

選び取る覚悟をもって流されるのはいい。

ただひたすらに流される、それは、命の消耗、ひいては無駄遣いと同じ。