Way to be HAPPY

Life is a Journey

最後に愛は勝つって本当?

やばいよ、まだ寝れないから書いちゃうよ。

そもそも論、好きって何ですか問題に絶賛直面中ですよ。

さらに被せて言わせてもらえば、愛ってなんですか問題も出てきちゃうよ。

愛してる、なんて言われると背中がぞわっとすること事の上ない現象勃発しちゃうよ。

絶対聞いちゃうもの、「あなたにとって愛ってなんですか?」って。

本当にこじらせ女子全開だよね。

でも、言えばいいと思ってるでしょと思うし、むしろ、あれだよね、ドラマとかの見過ぎだよねとか思ってしまう。

I love you.はなんとなく受け止められるけれど、愛してる、は無理。

なんというか、英語の I love you のノリで日本語で愛してる言っちゃいましたみたいのが無理。

たぶんぜんぜん違うものなんだと思う。

もう月が綺麗ですねでいいですよねー状態。笑

愛してる、って言葉はちょっと違うように感じる。

だから違和感を感じるのかな。

好きならまだいい、愛してるはちょっと聞きたくないっす、、、みたいになる変な感覚がある。

胡散臭いというか、あなたのそれは愛してるに相応しませんみたいな感じになってしまう。

今日も満遍なくこじらせてます。笑

昔、お母さんに愛ってなに?って聞いたら、
「あなたのために死ねるってことだよ」と言われたからかな。

でも、それはあなたの母親だからだけどね、と言われたのを今でも覚えている。

私の母親じゃない相手に言われてももうなんか違うなーってなっちゃうのはそれのせいだろうか。

真剣に、あなたが死ぬくらいなら私が死ぬと言われた母親の目が今でも忘れられない。

ああ、これが愛というものですか、、、と子供ながらに感じた。

と書きながら涙目なう。

そう考えると愛ってなんなんだろうなーと。

自己愛ってなんなんだろう。

自分のためになら、自分は死ねるってこと?

それだとちょっと日本語崩壊してしまうような。

愛ってなんなんだろう、それが目下取り組むべき課題なのかもしれない。

あと性と金。

性については、現在模索中。。。

金についても、現在模索中。。。

そろそろ捜索願を出すかもしれない。

冷静とセックスの間

冷静と情熱の間をもじってみたかったけど、どうも納得のいかない出来になった。

11分間の前と後にすればよかったかな、でもこれ、パウロコエーリョ好きにしか伝わらないよな、
とか考えていたらすごい時間が経過していた。

そろそろ寝ないと。でも、これを書かないと今日は悶絶して寝れない。

今年の元旦からとある人と付き合ってみた。

最初は本当に付き合ってみた、レベルだったけど、
途中からとても楽しかったし、幸せな時間だった。

どれだけ話していても、話が尽きないし、
一緒に居て苦痛じゃない、神様からのプレセントかこれは、と思っていた。

やるまでは。

私の人生において、99%付き合う前に事をなしていることしかなかったので、
それはもう新鮮で新鮮で仕方がなかった。

生まれて初めての青春っていうものをひたすらに味わっていた。

やるまでは。

やって2日目。

気づいてしまった。
ああ、いつもこうやって終わりが来るんだな、というパターンに。

あの11分間にいったい何が起きているのだろうかと不思議でたまらない。

たった11分間(比喩ですよ)に、絶対的に何かが変化しているということに今日確信を得た。

別に、早漏だったとか短小だったとかそういう問題ではなく(違うよと相手のために言っておく:575)、
絶対になにかが起きているとしかいいようがない。

ただの摩擦運動としか思っていなかったそれにそんなに重きをおいていなかった。

にも関わらず、私はこの1ヶ月以上それを断固拒否していたのだ。

純粋ぶってとかそういうものではなく、ああ、これはやったらまずいやつだ、と感じていた。

やったら、終わるなにかがあるなと。

そして、それがなにか今日なんとなく分かった。

その行為を通して、相手との境界線が曖昧になるのだと分かった。

私の場合でしかないけれど、やるまでは、他人として尊重していたなにかが、
やった瞬間から知らないうちに消えていく。

推測でしかないけれど、私は相手を自分の一部だとみなし始めるのだと思う。

だから、傷つけてもいい。そう思っている自分に今日気づいてしまって驚愕した。

相手の粗探しを無意識にスタートさせていることに今日気づいた。

そして、自分から遠ざけようとする癖があることにも。

これは、思春期の時、私が母親にしていたことと似ている。

今となっては申し訳ないけれど、どんなに傷つけても平気な存在。

それでも、私のそばに居てくれる存在。

それが母親だった。

そして、それを今相手にしている。母親と混同しているのかもしれない。

私は昔に遡れば母親の一部だったからそう思っていたのかもしれない。

そう考えると、やるという行為は一時でも、私の一部と化すからなのか?とか考えてしまう。

自分と相手との境が見えなくなる。

それが怖くなった。

だから距離をおこうとしてしまうのか。だから、相手を傷つけようとしてしまうのか。

私は実は付き合う前から言っていたことがある。

やったら、いつか好きではなかったと気づく日が必ずくるから、やりたくないのだと。

その予言がすでに実現しようとしているのか、はたまたこれは思い込みなのか。

私の悶絶は結局これを書いてもつづくことに、今、気づく。

どうして、相手を傷つけたいという衝動にかられるのだろう。

そこになんの意味があるのだろう。

そんなことをしている自分に今日ももれなく自己嫌悪。

いったい私は何から自分を守ろうとしているのだろう。

自分をも傷つけるその行為を通して。

当麻と酒

当麻はGHQの統治後、法律で違法となったとか。
それまでは、普通に神社や野に生えていたとか。
まあ実は今でも北海道界隈では生えているろか。

当麻と酒の違い。

それは、法律という人間が作った縛りだけではないのかと。

とある記述では、当麻を食べると癌に侵されている患者に食欲がわくという。

昔は神聖なる植物であったはず。

要はその統治する人間(と利害関係者:主に政府)の問題なのかと。

その先にあるものを誰も知らない。

酒が合法で、当麻が違法だなんて、政治的要因しかないのね、きっと。

コース料理

過食症がどうにかなったら、人生が変わる、と信じていた。

甘かった。

こういう性格や考え方がそれを招いてしまっただけだという事実を突きつけられいる。

本当の課題はこれから取り組む事なのかもしれない。

もしかしたら、他の過食症の人は違うのかもしれないし、私と同じなのかもしれない。

本当はあんなに辛かった過食症も、コース料理でいったら前菜みたいなもので、
それから、じゃああなたはどうするんですか課題の方がメイン料理なのかもしれない。

私は、じゃあどうするのか。どうしたいのか。

そんなメインを求められいるような心境。

前菜終わりましたけど、どうします?みたいな。

パン食べてる場合じゃないみたいな。笑

肉にするのか、じゃあその肉はなんの肉なのか。

魚にするなら、じゃあその魚はなんにするか。

食べないという選択肢にするか。

選択肢が急激に増えたような感覚。

それって素晴らしいこと。

でも、その素晴らしさについていけない私がいる。

全部食べたいし、全部食べたくない。

問題はそこなのかと。

疲れ

ずっと誰に打ち明けられず、うちに秘めていた疑問や不満が、
このブログを書いていると噴き出してくる。

というよりも、書いている最中に、
ああ私はこんなにも溜め込んでいたのかと実感する始末。

もう限界。

なのに、ピリオドを打てないのは、何も思い浮かばないから。

私は何がしたいのか、ただそれだけのことをずっと思い出せずにいる。

夢からさめて、夢がもう思い出せない、その時の感覚と似ている。

その感覚を味わいたくないから、酒を飲んで、曖昧にしているだけ。

その感情を抑えるために、タバコを吸って、紛らわせているだけ。

本当はわかっている、それをわからない振りをしている。

でも、それが本当に本当なのか、日本語としは崩壊しているけれど、
わからないから、未だに同じ生活を続けている。

時々思う。私はいったい誰に何を証明したいのか、と。

頭の中で四六時中言い訳をしている私。

つまるところ、四六時中私は私に言い訳をしているわけである。

誰に証明したいわけでもなく、私は私にずっと言い訳をして、私を納得させようとしている。

でも、私は知っているから、それが言い訳だと。

だから余計ややこしくなる。

と、そうこうしているうちにワインのボトルが1本。

過食の次は、飲酒ですか、って感じ。

仕事とは、何に仕える事なのか

それでも、私は精神世界というか、真理というか、
そういうものにしか惹かれない。

この業界で、私が興味を持てるものは何もない。

でも、すがっている。

だって、それでうまくいった過去があるから。

要は過去にすがっているだけなのかも。

だから、或る日突然無職感を感じて動けなくなる。

私には何もない、と漠然と感じる羽目になる。

日本に生まれた、ただそれだけで、死にはしないという安定を与えられているというのに。

贅沢病なのかもしれない。

それでも、考えてしまう。

ただ、生きていればいいのか、と。

充実感を感じられない日々は死んでいるのと同じ。

日銭を稼ぐために働くのは、身体を売っていることと同じではないかと。

私の昔の日々と今になんの違いもない。

時間を売るか、身体を売るか、ただそれだけの違い。

世間で良しとされているか、されていないか、それだけの違い。

どちらも幸せではないのだけれど。

人はなぜこうも普通にこんなにつまらないことを苦ともせず、生きていけるのだろう。

四六時中苦痛だ。

私でなくともできる、そんなことをして生きていく、そのこと自体が。

私にしかできないこと、それはないのかもしれない。

ただ、喜びをもって仕事がしたい。

ただ、それだけのことをどうしてこんなにも悩まなければならないのだろう。

どうして、私はこんな日々をよしとして生きているのだろう。

そんな疑問が最近ずっと頭から消えない。

だからとて、何をする勇気もなく、ただ日々を消費して生きている。

それが今の私。

酒とタバコと男と女

目下、男女問題に向き合っている私。

そして、現実逃避のための酒とタバコが増えていく始末。

まずい、これはまずい、と思うが、それは結局酒とタバコで曖昧にされる。

ここ数週間の私の動きである。

今日、流石に限界を感じた。

私は一体何から逃げて、何と対峙しているのか、それさえももうわからなくなってきた。

職場環境は申し分ないほどによくなった。

それにも関わらず、今日、少なくとも100回は私は一体何をしているんだろう思考が作動。

本当に、私は、いったいなにをしているのだろう。

なにを求めているのだろう。

なにがしたいのだろう。

どうしたらこの思考が消えるんだろう。

そんなことばかり考えていて何も手につかない。

このままでいたい、でも、このままでいいはずがない。

何よりも、私がまずこの状況を許せていないのだから。

でも、何も思い浮かばない。

どうしたらいいのか。

酒とタバコに逃げている場合ではないというのに、

また今日も私は酒に溺れ、タバコを吸いまくっている。

人間って本当に不思議な生き物だなあと。

本能を忘れ、世間体という正体不明の概念にもみくちゃにされている。

そんな自分を厭わしいと思いながらも、それが自分のためだと思い込んでいる始末。

海外に逃亡してしまいたい。

もし、できるなら、ロケットでここから離れていなくなってしまいたい。

性と金

この前のボディートークで、私の課題は…

 

性と金

 

だと教えてもらった。

 

もはやエロいイメージしかなかった性という言葉。

いやらしいと感じていたお金というもの。

 

まさに必要なテーマだと思った。

 

自分の中にある陰と陽。

自分の外にある陰と陽。

 

それが交わるとき、何かが変わるのかも知れない。

 

でも、今回もいつものように、酒に逃げてる気がする。

気づけばだいたい朝。

 

お酒もタバコももはや私の気を紛らわせてくれるものじゃなくなってる。

 

気を紛らわせている場合なんかじゃないのに。

カタカムナ

本日は月1の温熱療法の日。

千葉の温熱に早2年近く通っているのだけれど、もはや異次元状態。

まず、施術者3人の平均年齢70歳という、

こんな私が彼らに治療されて良いんですか状態。

最初の衝撃が凄かった。

え?誰が施術者で誰が患者なんだ?みたいな。

でも、中身は誰よりも元気だったりする。

年齢は関係ないということを実体で証明している感じだ。ホントにすごい。

行けば行くほど、話せば話すほど、なんだか私は誰と相対しているのか分からなってくる。

 

温熱については別で語るとして、

もはやサイキッカーみたいになってる彼らは今日も誰かの何かを祓っていた。

すげー咳き込んでたけど。笑

 

今日たまたま音霊だか言霊の話になって、(普通ならないよね)あの童謡は、実は違う意味があるとかいろいろ教えてもらった。

その時に、カタカムナという文字の名前を聞いた。

昔にあったらしい言葉らしい。

 

なんだか気になって検索してみた。

 

あ、これ昔書いてたやつだーってなった。

ここで再会するとは。

幼稚園のとき、だれも遊んでくれないから家で紙にああいう文字を作った文字盤みたいなやつに書いて、石ころ転がしては、何かをしていたのを思い出した。

あの丸ぽっちの付く場所とかかなり似ている。

 

なんかそういう遊びって魔術っぽいなと勝手に思い込んでいた。

だから、今まではあれ、魔術の文字っぽかったなーと思って大人になってから家の本あさってみたり、古本市で見つけた魔術の本みたいなやつ読んでみたり(ほとんど意味不明だった)したけど、あの文字は見つからなかったから諦めていた。

あ、こっちだったかーみたいな納得感。

 

にしても、なんなんだろうあの不思議な文字は。

私はどこで見たんだろう。

むしろいったい何の遊びをしていたんだw

 

疑問はつづくよどこまでも…

 

ヒプノセラピー2

もはや題名と全く内容に関連性はない。笑

それでも、続いている気がするから、このままの題名で。

心ここにあらずの状態で、ランチに行ったら、
地下に続く階段で、ダイナミックにこけた。

というかもはや階段を転がり落ちた。

とっさの判断で、スネで全体重を受け止めて、
階段の下まで落ちた。

スネとか膝は血が出てるし、
スネにいたっては腫れ上がってるなうである。

通常人はただ階段から落ちたという事実を受け止めるのかもしれないけれど、
今日の私はなんとなくそれは受け入れ難かった。

落ちるまではハイテンションだったし、浮き足立っていたからかもしれない。

落ちて気がつく、あーこれなんだ?と。

実際問題初めて、階段でこけた。
初めて、階段を転がり落ちた。

鳥がよくガラス窓にぶつかって放心しているのをよく目の当たりにしている私だけれど、
まさしく、その状態だった。

頭打ってないけど、もはや脳震盪状態みたいな。笑

通りすがったおじさんは私の顔を怪訝そうにみてた。

正直、めちゃめちゃ痛かった。

そこで、考えた。

これになんの意味があるのかと。

何かに意味を見出さないといられない性分がざわつき出した。笑

でも、理由はわからなかった、というか理由なんてないのかもしれないし、そもそも。

でも、人生初めて階段を踏み外すと新しい発見がある。

まず、階段から落ちて死ぬシーンのあるドラマとかあるけど、
あれは、たぶん死ぬ可能性が多分にあるのだと実感した。

とっさの判断でしゃがみこむスタイルをとらなかったら、
まず頭から落ちていたし、あの程度で、大ダメージ食らっているこっちとしては、
死のうと思えばきっと階段で死ねるんじゃね?と感じた。

そして、第2に、いかに私の体は頑丈に作られているかを知った。

あれだけ落ちて、血もある程度だし、打撲もある程度で済んだし、
今は痛いけど普通に歩けるし、私ってすごいと思った。笑

御老人であれば、骨折って終わり、な感じ。

過食嘔吐って骨スカスカになるイメージあったけど、
私意外と骨丈夫だったんだな、と。

そして、過食嘔吐しなくなっている時期が私の骨を助けてくれたのではないかと。

にしても、ショックすぎた。

そして、実は今日はとある資格試験の発表日だった。

階段から落ちたからには、受かってるんじゃね?と期待したけど、
実際はばっちり落ちていた。

60%点数取れれば受かる試験で、落ちたのは初めて。

だけれども、それで過食に走ることもなかったし、
やっぱり今の仕事好きじゃないのかー的な感じで終了。

やっぱり、好きこそものの上手なれな気がするし、
興味のないことを勉強して頑張れるのは、大学までだったかなとも思ってる。
言い訳がましいけれど。

落ちたは落ちた。
だめだった。

でも、なんか今日は自分をなじる気になれなかった。

私に学びたい他のものができたからかもしれない。

ってなんもヒプノセラピー2ではない感じで終了w