私は3日前にボディトークを卒業した。
普通の自称サイキックの方々のとことに行っていて、卒業といわれた人はどれだけいるのだろうかと考えた。
精神病院で「卒業」は、「死」なくしてあり得るのかとも考えた。
だがしかし、私は卒業なのだと言われた。
その時には、前日盛大に過食嘔吐しているし、なぜこの私が卒業なのかと理解できなかった。
でも、いま、理解出来ることがある。
その日から私は、過食嘔吐をしていないからだ。
不思議すぎることもあるものだ。
そして、別に今数日過食嘔吐をしていないだけで、そのうちするかもしれない。
それでも、していない「今」を記録しておきたくて私は書いている。
6月にはじめたボディートーク。
それから半年が経過した。
そして、6月の初めて会った時点で、彼女は、「年内には終わるかと思います」と言い切っていた。
安心したし、今ままでにそんな発言をする先生も、サイキッカーもカウンセラーもいなかったものだから、
私は正直面食らっていたのを今でも覚えている。
それでも、今、私は、その通りだったなと感じている。
ボディトークとは、そもそもそれ自体で、本人を快癒させるものではないそうだ。
その名の通り、ボディのトークを聞く、そしてそれに従って対応する、それしかしない、
それがボディトークなのだと知った。
例え本人が口で「私は治したいんです」と言っていても、身体がそう思っていなければ、
つまり、本人にその準備ができていなければ、そう聞いたところで、何もできないのだそう。
だからこそ、半年もかけて準備してきてくれたのだと思った。
私は、毎月1〜1・5回ほど通っていた。
その方は、私の懐事情もきっと鑑みてそのスパンにしてくれたのだろうけど、
結果、それが正解だった。
そして、私の準備ができるよう、また、準備をさせていると悟らせないように、
私を常に暖かく見守っていてくれた。
私は、自分には効果が出ていないんじゃないかと疑うこともあったというのに。
そして、セッションに行くのが吐きすぎていて恥ずかしくて行けない気持ちになった時もしばしばあった。
それでも、なりふり構わずいくと、まったくそこは気にしていないような感じで、
扱ってくれて、面食らうと同時に安堵していた私がいた。
この人なら、信頼できる、そう私は知らず知らずのうちに思っていたのだと思う。
私に、「自分の顔の何が好き?」と聞いて、
私が顔を赤らめているのを見て、ふふふと笑い、自信がないんですね、と笑われたことがある。
しかし、その笑い方はすごく愛情があるというか、超絶フラットで、嫌味でもなんでもないことが
私にはすぐ分かった。
自信がない理由さえも理解してくれているのだと思った。
何度も書いたかと思うが、こういう仕草や反応は、理解力のない人間にとっては、
(なに謙虚ぶってんだか)になるのである。
私は根本的には自信がない。
他人に綺麗だと形容されることがあることも認識してはいるのだけれど、
私にとってはその認識と私の自信にはまったくもって関係性がないのだ。
それを彼女は理解してくれた、ただただそれが嬉しかった。
けなすでもなく、褒めるでもなく、そうなんだよね、と認めてくれる。
私が欲しくて欲しくて求めていたけれど、手に入らなかったもの、それを一瞬で理解して
与えてくれたことに今心から感謝している。
人間は、褒められることを求めているのではなく、
ただ、自分という存在であることを、そうなんだね、って認めてもらう、それが必要なのだと思った。
正直、私は道を歩いていて、人よりも容姿が優れていることは客観的に理解している。
でも、それと自分の自信があるかないかは別の話なのである。
それを彼女は理解してくれた。
嫌味だととらずに、笑いにして、それでも、理解していることを示してくれた。
私はただひたすらにそれが嬉しかった。
きっと両親以外で初めてかもしれない。
もう卒業だけれど、それでも私は、彼女のもとへ通いたいと思っている。
初めて尊敬できる人に出会ったように思っているから。