Way to be HAPPY

Life is a Journey

疲れ

ずっと誰に打ち明けられず、うちに秘めていた疑問や不満が、
このブログを書いていると噴き出してくる。

というよりも、書いている最中に、
ああ私はこんなにも溜め込んでいたのかと実感する始末。

もう限界。

なのに、ピリオドを打てないのは、何も思い浮かばないから。

私は何がしたいのか、ただそれだけのことをずっと思い出せずにいる。

夢からさめて、夢がもう思い出せない、その時の感覚と似ている。

その感覚を味わいたくないから、酒を飲んで、曖昧にしているだけ。

その感情を抑えるために、タバコを吸って、紛らわせているだけ。

本当はわかっている、それをわからない振りをしている。

でも、それが本当に本当なのか、日本語としは崩壊しているけれど、
わからないから、未だに同じ生活を続けている。

時々思う。私はいったい誰に何を証明したいのか、と。

頭の中で四六時中言い訳をしている私。

つまるところ、四六時中私は私に言い訳をしているわけである。

誰に証明したいわけでもなく、私は私にずっと言い訳をして、私を納得させようとしている。

でも、私は知っているから、それが言い訳だと。

だから余計ややこしくなる。

と、そうこうしているうちにワインのボトルが1本。

過食の次は、飲酒ですか、って感じ。

仕事とは、何に仕える事なのか

それでも、私は精神世界というか、真理というか、
そういうものにしか惹かれない。

この業界で、私が興味を持てるものは何もない。

でも、すがっている。

だって、それでうまくいった過去があるから。

要は過去にすがっているだけなのかも。

だから、或る日突然無職感を感じて動けなくなる。

私には何もない、と漠然と感じる羽目になる。

日本に生まれた、ただそれだけで、死にはしないという安定を与えられているというのに。

贅沢病なのかもしれない。

それでも、考えてしまう。

ただ、生きていればいいのか、と。

充実感を感じられない日々は死んでいるのと同じ。

日銭を稼ぐために働くのは、身体を売っていることと同じではないかと。

私の昔の日々と今になんの違いもない。

時間を売るか、身体を売るか、ただそれだけの違い。

世間で良しとされているか、されていないか、それだけの違い。

どちらも幸せではないのだけれど。

人はなぜこうも普通にこんなにつまらないことを苦ともせず、生きていけるのだろう。

四六時中苦痛だ。

私でなくともできる、そんなことをして生きていく、そのこと自体が。

私にしかできないこと、それはないのかもしれない。

ただ、喜びをもって仕事がしたい。

ただ、それだけのことをどうしてこんなにも悩まなければならないのだろう。

どうして、私はこんな日々をよしとして生きているのだろう。

そんな疑問が最近ずっと頭から消えない。

だからとて、何をする勇気もなく、ただ日々を消費して生きている。

それが今の私。

酒とタバコと男と女

目下、男女問題に向き合っている私。

そして、現実逃避のための酒とタバコが増えていく始末。

まずい、これはまずい、と思うが、それは結局酒とタバコで曖昧にされる。

ここ数週間の私の動きである。

今日、流石に限界を感じた。

私は一体何から逃げて、何と対峙しているのか、それさえももうわからなくなってきた。

職場環境は申し分ないほどによくなった。

それにも関わらず、今日、少なくとも100回は私は一体何をしているんだろう思考が作動。

本当に、私は、いったいなにをしているのだろう。

なにを求めているのだろう。

なにがしたいのだろう。

どうしたらこの思考が消えるんだろう。

そんなことばかり考えていて何も手につかない。

このままでいたい、でも、このままでいいはずがない。

何よりも、私がまずこの状況を許せていないのだから。

でも、何も思い浮かばない。

どうしたらいいのか。

酒とタバコに逃げている場合ではないというのに、

また今日も私は酒に溺れ、タバコを吸いまくっている。

人間って本当に不思議な生き物だなあと。

本能を忘れ、世間体という正体不明の概念にもみくちゃにされている。

そんな自分を厭わしいと思いながらも、それが自分のためだと思い込んでいる始末。

海外に逃亡してしまいたい。

もし、できるなら、ロケットでここから離れていなくなってしまいたい。

性と金

この前のボディートークで、私の課題は…

 

性と金

 

だと教えてもらった。

 

もはやエロいイメージしかなかった性という言葉。

いやらしいと感じていたお金というもの。

 

まさに必要なテーマだと思った。

 

自分の中にある陰と陽。

自分の外にある陰と陽。

 

それが交わるとき、何かが変わるのかも知れない。

 

でも、今回もいつものように、酒に逃げてる気がする。

気づけばだいたい朝。

 

お酒もタバコももはや私の気を紛らわせてくれるものじゃなくなってる。

 

気を紛らわせている場合なんかじゃないのに。

カタカムナ

本日は月1の温熱療法の日。

千葉の温熱に早2年近く通っているのだけれど、もはや異次元状態。

まず、施術者3人の平均年齢70歳という、

こんな私が彼らに治療されて良いんですか状態。

最初の衝撃が凄かった。

え?誰が施術者で誰が患者なんだ?みたいな。

でも、中身は誰よりも元気だったりする。

年齢は関係ないということを実体で証明している感じだ。ホントにすごい。

行けば行くほど、話せば話すほど、なんだか私は誰と相対しているのか分からなってくる。

 

温熱については別で語るとして、

もはやサイキッカーみたいになってる彼らは今日も誰かの何かを祓っていた。

すげー咳き込んでたけど。笑

 

今日たまたま音霊だか言霊の話になって、(普通ならないよね)あの童謡は、実は違う意味があるとかいろいろ教えてもらった。

その時に、カタカムナという文字の名前を聞いた。

昔にあったらしい言葉らしい。

 

なんだか気になって検索してみた。

 

あ、これ昔書いてたやつだーってなった。

ここで再会するとは。

幼稚園のとき、だれも遊んでくれないから家で紙にああいう文字を作った文字盤みたいなやつに書いて、石ころ転がしては、何かをしていたのを思い出した。

あの丸ぽっちの付く場所とかかなり似ている。

 

なんかそういう遊びって魔術っぽいなと勝手に思い込んでいた。

だから、今まではあれ、魔術の文字っぽかったなーと思って大人になってから家の本あさってみたり、古本市で見つけた魔術の本みたいなやつ読んでみたり(ほとんど意味不明だった)したけど、あの文字は見つからなかったから諦めていた。

あ、こっちだったかーみたいな納得感。

 

にしても、なんなんだろうあの不思議な文字は。

私はどこで見たんだろう。

むしろいったい何の遊びをしていたんだw

 

疑問はつづくよどこまでも…

 

ヒプノセラピー2

もはや題名と全く内容に関連性はない。笑

それでも、続いている気がするから、このままの題名で。

心ここにあらずの状態で、ランチに行ったら、
地下に続く階段で、ダイナミックにこけた。

というかもはや階段を転がり落ちた。

とっさの判断で、スネで全体重を受け止めて、
階段の下まで落ちた。

スネとか膝は血が出てるし、
スネにいたっては腫れ上がってるなうである。

通常人はただ階段から落ちたという事実を受け止めるのかもしれないけれど、
今日の私はなんとなくそれは受け入れ難かった。

落ちるまではハイテンションだったし、浮き足立っていたからかもしれない。

落ちて気がつく、あーこれなんだ?と。

実際問題初めて、階段でこけた。
初めて、階段を転がり落ちた。

鳥がよくガラス窓にぶつかって放心しているのをよく目の当たりにしている私だけれど、
まさしく、その状態だった。

頭打ってないけど、もはや脳震盪状態みたいな。笑

通りすがったおじさんは私の顔を怪訝そうにみてた。

正直、めちゃめちゃ痛かった。

そこで、考えた。

これになんの意味があるのかと。

何かに意味を見出さないといられない性分がざわつき出した。笑

でも、理由はわからなかった、というか理由なんてないのかもしれないし、そもそも。

でも、人生初めて階段を踏み外すと新しい発見がある。

まず、階段から落ちて死ぬシーンのあるドラマとかあるけど、
あれは、たぶん死ぬ可能性が多分にあるのだと実感した。

とっさの判断でしゃがみこむスタイルをとらなかったら、
まず頭から落ちていたし、あの程度で、大ダメージ食らっているこっちとしては、
死のうと思えばきっと階段で死ねるんじゃね?と感じた。

そして、第2に、いかに私の体は頑丈に作られているかを知った。

あれだけ落ちて、血もある程度だし、打撲もある程度で済んだし、
今は痛いけど普通に歩けるし、私ってすごいと思った。笑

御老人であれば、骨折って終わり、な感じ。

過食嘔吐って骨スカスカになるイメージあったけど、
私意外と骨丈夫だったんだな、と。

そして、過食嘔吐しなくなっている時期が私の骨を助けてくれたのではないかと。

にしても、ショックすぎた。

そして、実は今日はとある資格試験の発表日だった。

階段から落ちたからには、受かってるんじゃね?と期待したけど、
実際はばっちり落ちていた。

60%点数取れれば受かる試験で、落ちたのは初めて。

だけれども、それで過食に走ることもなかったし、
やっぱり今の仕事好きじゃないのかー的な感じで終了。

やっぱり、好きこそものの上手なれな気がするし、
興味のないことを勉強して頑張れるのは、大学までだったかなとも思ってる。
言い訳がましいけれど。

落ちたは落ちた。
だめだった。

でも、なんか今日は自分をなじる気になれなかった。

私に学びたい他のものができたからかもしれない。

ってなんもヒプノセラピー2ではない感じで終了w

ヒプノセラピー

いつも思うのだけれど、仕事でメールや文章を打っている時は、
やたらと誤字脱字が多くて、バックスペース連打ということもしばしばあるくせに、
このブログを書いている時はやたらとスムーズだったりする。不思議だ。

好きこそ物の上手なれとはこのことか。このことなのか!

それかただただ単にmacのキーボード打ちやすいってだけかもしれない。笑

ちょっと後者の方が有力気味である。

今日のお題は「ヒプノセラピー

私は正直言って、ヒプノセラピーと聞くと脳内で、”うさんくさいもの”という変換が起こる。

誤字脱字のレベルをはるかに超えた変換機能搭載中なのである。

でも、昨日行ったボディトークでその話になってからもう頭から離れなくなった。

仕事なんてそっちのけである。

というよりも四六時中そのことばかりを考えているにも関わらず、仕事できているんだから、
今まで仕事中に(私は集中して仕事をしている)と思っていたこと自体が幻想だったとも言える。

というか、集中して仕事をしていようが、集中して仕事をしていなかろうが、
私の場合、成果物は大差ない、ということなのだと思う。

要は、そんなレベルの仕事しかしていないってこと。

それか、または、そんなレベルの仕事しか私の今までの人生にはなかったってことなのかもしれない。

そして、稼ぐ金額というものは別に集中力や情熱等々に比例しないし、もはや相関関係もないのでは?
と疑っている。

なぜなら、私には集中しているという感覚があまりわからないから。

集中している時に話しかけられても気づかない人とか本当にそれは幸せすぎるギフトなのだと思う。

雑念が多すぎるからか、瞑想もろくすっぽできないし、瞑想しろとか言われると逃げ出すくせがある。
たぶんそれは迷走との誤変換。

そして、ヨガとかも無理。じっとしていられないし、呼吸に意識なんておいてられなかった。

そんな私が唯一集中したとき、それはヒプノセラピーをしていた時だったように思う。
(意外とこれを書いている時も時間の経過が早く感じるから集中している方だと思うけど)

といっても、数人(ほとんど同期)にしかやっていなかったけれど、意外と集中していた、気がする。

それでも、私はヒプノセラピーが嫌いだし、苦手意識がある。

理由の一つ目は、私がヒプノセラピーで何も見えなかったこと。

何も感じなかったこと。いつも、(やべえ、これは何か創作しないとまずい)と思っていたのを思い出す。

そして、きっとそれらは創作だったようにも思うし、違うかもしれない。

だって、ヒプノセラピーで「見える」「わかる」「感じる」等の経験がないから、
それは他人様のそれと比べられるはずもなく。

それでも、くそまじめなおじさんがどっか昔のアフリカかどっかの族長だったみたいなシーンとか、
くそ冷静な美人が子供みたいに泣きじゃくったりとか、そういうのを目の当たりにしてきたから、
それは、きっとあるんだろうな、(私には縁がないけど)と思っていた。

でも、それは違うって言ってくれた。

見えないからこそ、できるのだと言ってもらえた。

なによりも嬉しかった。

それでも、どうしても気乗りしない理由は、多分二つ目の理由だと思う。

私は、頑ななほど、自分の「経験」を信じているところがある。

そして、自分の過食症が治ったとしたら、その私を治ることへ導いた「方法」こそ、私が広めていくべきことなのだと思っていた。

そういう気持ちが大学のころからずっとあったように思う。

だからこそ、この過食症を治さなければならない、と思っていた。
でなきゃ私が言うこと、行うことになんの意味もないと。

だって、ダイエット商品の通販番組に超絶太った人が出てきて、「これは本当にいいんですよ」と言ったところで、
誰も耳を貸さないと思うし、買いたいとも思わない。むしろ、クレームの電話するかな。笑
健康食品だって、飲んでもないような健康そうなタレントを起用してCMしてるから売れるんでしょ?みたいな。

だからこそ、私が何かやるとしたら、「それ」で治っている必要があるのだとずっと考えてきた。

だからこそ、私の過食症に対して悪影響しかなかったヒプノセラピーは無理だと思っていた。

その他本当にいろいろ手を出したけれど、すべて無理だった。

食欲がわかなくなるからと、覚せい剤をやってみた。
→結果、ガリガリにはなれたが病気になった。治ったから良いものの死ぬとこだった。

精神病院に入院すれば治るかと思ったから、入院してみた。
→結果、薬漬けにされて、思考能力は低下、退院して薬を飲まなくなると、元どおりの生活が待っていた。(でも元気)

山にこもって、内観してみた。
→親への感謝の念は湧いたは湧いたけど、結局、過食になんの影響もなかった。
 離婚への決意につながるというオチ。(旦那に感謝することは特になかった)

ローフードにハマり、いわゆるローフードしか食べないようになった。
→結局、途中で過食嘔吐するから、もはやローフード生活を送ってるのか謎な状態に陥ってやめた。
 ローっていうか、もはやゲローフード状態。

糖質制限をしてみた。
→結果、糖質への欲望が爆発し糖質制限しているとは決して言えないくらい糖質を過食嘔吐するはめになった。

所謂スピリチュアルにハマってみた。
→特になんの救いにもならなかった。ふわふわしちゃって、変な人みたいな扱いをうけて終了。

スペイン800km巡礼の旅に出てみた。
→カロリー消費しているという幻想に飲まれ、寝る前にピザを食い、アイスクリームを食べる生活をしていたら、
 余計に太った。ちなみに筋肉は減った。歩くだけだと、筋肉は減ることがわかった。

ランニングにハマってみた。
→別に体重は減らなかった。筋肉もちなみに増えなかった。(栄養不足だから?)結局、すごい食欲との戦いへ突入。

酒に溺れてみた。
→確かに、食べずに飲んでいるから体重は減った。でも、減ったのは筋肉だった。
 ずっと寝ているから、生きるのが辛くなった。ベッドの上で生活する羽目に。

筋トレにハマってみた。
→いくら筋トレしても、必要な栄養素がなかったからか、まったく体脂肪は減らず、筋肉量は増えず。
 その反動で、過食嘔吐激しくなるオチ付き。トレーナーはイケメンだった。

マヤ歴にハマってみた。
→教祖様みたいな人に君は運命の人だみたいなことを言われ、そういう感じになるものの、最後までその教祖様が運命の人だと思えず、
 逃げ出し、終了。ちなみに、今はフィーバーしている模様。

数秘術にハマってみた。
→確かに面白かったけれど、協会の人がマスコットみたいに私を利用しようとしている意図に辟易して退会。終了。
 理論が中途半端だったのも解せない。

アメリカの有名なサイキッカーのセッションに大枚はたいて行ってみた。
→あなたは悪い宇宙人と契約しているから、見たくないし、(スクールをしている人だったんだけど)入学も拒否され、泣きながら終了。
 ちなみに返金はございません。

ヒプノセラピー
→患者で行ったはずが、なぜか養成講座を勧められ、そこに入り、
 私の後を継ぐんだと言われ、断ったら、破門にされ(大枚払ったんだけどさ)、各地で悪評を流され、号泣して終了。
 ↑これがトラウマ
 ちなみに、本も出版し、未だに幅を効かせている模様。

と、まあいろいろありましたが、結局、時間とお金を多分に使い、何も私の過食症の救いにはならなかった。

だからこそ、私は自分が救われたものしか信じなくなってるのだろうなと思った。

つづく(眠い)

恋愛と「第五の山」

パウロ・コエーリョの読み逃していた最後?の1冊
「第五の山」より

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他の人々の意見を気にせずに、自分の心が望むことを感じる、それこそが自由だった。
彼女は近所の人々や友達と、異邦人を家に泊めることについて、けんかをしてきた。
でも自分自身と戦う必要はなかった。

女は自由だった。
なぜなら、愛が彼女を解き放ったからだった。

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恐れは避けられないことが始まるまでしか、続かない。
それから先は、恐れはその意味を失ってしまう。
そして、我々に残っているものは、正しい決心をしているという望みだけなのです。

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人間は誰でもその人生で悲劇に見舞われることがある。
その時、神は自分の質問に答えるよう、人間に挑戦するのだ。
「なぜ、お前はそんなにも短く、苦しみに満ちた一生にしがいついているのだ?
お前の苦闘の意味はなんなのだ?」
この質問にどう答えるかわからない者は諦めてしまう。
一方、神は公正ではないと感じて、存在の意味を求める者は、自分の運命に挑戦する。
天から火が降りてくるのはその時である。
それは、人を殺す火ではなく、古い壁を引き倒して真の可能性をそれぞれの人に知らせる火なのだ。
臆病者は絶対に、この火が自分の胸を焼くのを許そうとはしない。
彼からが望むのは、変わってしまった状況がすぐにまた、元どおりにになって、それまでどおりの考え方や
生き方で生きていくことだけなのだ。
しかし、勇敢な者は、古くなったものに火をつけ、たとえ、どんなにつらくとも、神をも含めてすべてを捨てて、
前進し続けるのだ。

「勇敢な者は常に頑固である」

天界では神が満面の笑みを浮かべている。
なぜならば、神が望んでいるのは、一人ひとりの人間が、自分の人生の責任を自らの手に握ることだからだ。
主は自分の子供たちに、最高の贈り物を与えているのだ。
それは、自らの行動を選択し、決定する能力である。

心に聖なる炎を持つ男や女だけが、神と対決する勇気を持っている。
そして彼らだけが、神の愛に戻る道を知っている。
なぜならば、悲劇は罰でなくて挑戦であることを、彼らは理解しているからである。

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すっごい内容書いてあるけど、これを読んでようやくもう1度恋愛なるものに挑戦するかという気になれた1冊。

また失敗するかもしれないし、相手の婚期を延長させてしまうだけかもしれない。

それでも、まあ、飛び込んでみれば自ずと答えは見つかるんだろうな、というゆるーい気持ちになれた。

本当は、まだこの世の中の「俺ら付き合っちゃう?」的なシステムに疑問を隠しえないけれど。

電車

電車に乗りながら、たまにこの電車はどこへ行くんだっけ、と思う時がある。

 

誰かが確か、人生を電車に例えていたかもしれないけど、そういうのあるんだなーって。

 

特に特急とかは、一駅逃したら次まで長くて辛いもの。

 

乗り遅れ、降り逃しのない、計画的なご利用を、だよね。

 

ぜーんぜん無理なんですけど。

あ、はっぴーにゅーいやー

正月。

 

あんなに辛かったのに毎年欠かさず実家にかえること十数年。

 

結婚していたときでさえ旦那と旦那の実家をまだ若いという言い訳で放置して帰っていた。

 

それを今年は変えてみた。

 

行ったことのないクラブのカウントダウンパーティーに参加してみた。

 

そして、1/1にフラフラしながら実家へ到着。

 

いつも1/1になった後に風呂で嘔吐していた私が、もはや吐かなくなった。

 

吐くことを考えなくなった。

 

それだけでも大きな進歩である。

 

それどころか、あれだけ気にしていた姉夫婦のこともそれほど気にならなくなった。

 

子供も伴侶もいない私、

と、すべてを兼ね備えた姉との違い。

 

それが毎年辛かった。

 

旦那が居ても、稼ぎが姉の旦那よりあっても

決して私は父には認められてなかった。

 

そういう恨みがわたしにはあった。

 

今はもはや初任給より安い会社で、旦那も、子供もいない。

 

でも、ここ一番気が楽だった。

 

帰ってきて思ったこと。それは、

あーわたしはこの価値観の家庭で、その価値観に縛られて育ってきたんだなーということだけ。

 

今は、社会から見たらわたしには何もない。

そして、まあ今は金銭的にも物資的にも職業的にも、ない方に分類されるであろう。

 

でも、今、一番心が満たされているように思う。

 

誰かの価値観なんて糞食らえだ。

 

私が認められないとしても、もはや、私が良ければそれでいい、そんなゆるーい安心感がある。

 

この歳でようやくある意味自立を迎えたのだと感じた。

 

両親は好きだし、育ててくれたこと、助けてくれたことに感謝している。

 

でも、それでも、もう私は彼らの価値観の中で生きていくつもりはない。

 

私は彼らにとって今でもダメな子にうつるだろう。

 

でも、もう、そんなことはどうでも良くなった。

 

そんな素晴らしい正月。