Way to be HAPPY

Life is a Journey

Stay Hungry Stay Foolish

今日の私がこのブログに至るまでの話。

ここ最近はコロナのお陰で在宅勤務がずっと続いていた。 

ようやく私の部下を雇えた数日後、コロナの在宅勤務が始まった。

そもそも昭和感漂う会社で、ゆとり世代を馬鹿にするなよというくらいほとんど皆さん仕事をしていない。
そんな中、私は全国を飛び回り、毎日電話対応・事務処理を一人でこなす日々。
だって、みんなやらないんだもん。

できるからやる、それは当たり前のことだと思って生きてきた。
そして、できることはやる、そういう人しか世の中にはいないと思っていた。
少なくとも今までの私の世界には居なかった人種が私の人生に登場した。

できることさえ、やらないという奴しかいない会社に入ってしまったことが全てもの過ちだったのかもしれない。

ということで、在宅になってもほとんど一人で仕事をしていた。
新しく雇った人は、数日しか出社していないからやってもらうこともできない。
そして、会社の人は仕事をしない。

それでも、やはり家にいるのだから通勤時間はなし、マッハで仕事を終わらせるので定時にはフリー。
ということは、家事をする時間はできてしまう。
そして、彼は帰りが遅い。休みもほとんどない。

そういう日々を過ごしているうちに、私は疲弊していった。
在宅だから、時間があるから、やってもらって当たり前、お礼は言われはするけれども。
みたいな状況に置かれている人って結構いるんじゃないのかなと思う。

労働としての時間、移動の時間は減るだろう。
だがしかし、それと反比例して精神的な負担が増えていることに意外と気付きにくいのかもしれない。

私がそうだった。

会社でクズどもに会わなくていい分、気が楽だわだなんて最初は思っていたけれども、
なんてったって相手はクズだ、会わなくてもクズなのはひしひしと伝わってくるのである。

リモート環境もWIFIがないとかで整えてない社員は在宅で何をしているんだろう?
そういう疑問が頭を過るわけである。
まあ答えは、何もしていない。なんだけどね。
会社にきたってろくに仕事をしていない人間が、自宅で何をするというのだろう。

実際、彼らが出社しなくても会社は回っているのだから、
正直、不必要な人間でしかなかったんじゃないか疑惑が出てくる。
去年、同じ時の残業時間凄かったけど、一体何をしていたのだろう?
それに気づかない経営陣も同じ穴のムジナである。

そして、もう一つ。
同居している相手の話である。

もう、私が洗濯をして、洗い物をして、買い物をして、料理をして、掃除をしているのが当たり前になってきている。
私はできることをやらないのは、できない。
できるなら、やってしまう。
本当はやらなければいいのかもしれないけど、できるのにやらないことができない。
それは私の問題かもしれない。

でも、相手からしても、時間あるんだから、と思う場合も多いのでは?と思う。

時間があるのと、家事の負担を増やすべきなのかは別の問題なのだと思うけれど、
結構みんな一緒くたに考えがちだと私は思っている。

そして、私が陥った闇はそこだった。

7号食ダイエット〜1日目〜

ご無沙汰しまくっております。

最近、過食嘔吐をしなくなってから少しずつ体重は増え…

 

f:id:xphantasmagoriax:20200309081416p:image

 

53kgを突破!しました。

1年前の53kgと違うのは、

筋肉量!!これにつきます。

 

筋肉量が1.5kg落ちてからの同じ体重、

ということは、そのまま1.5kgが脂肪に変身したことを意味しております。泣

 

ということで、

ひたすら玄米食べるやつ

逆に言えば玄米以外については制限アリ

というダイエット方法を

穀物炭水化物怖い系元女子が試してみようと言うわけです。

↑ちなみに(元)がついてる箇所がポイントw

 

よし、宣言終わり!

 

あとはやるだけ。

正しいとか正しくないとかはない

すごく久しぶりのブログ。
今日は久しぶりに思うところがあって書いている。

人は、正しいとか正しくないとかで判断しがちではないだろうか?
その正しいか正しくないかは誰が決めているのだろう。
それは、その発言をしている本人の判断でしかないということに気づかない人が多い。

私は、他人に優柔不断だとか、意固地だとか言われることがある。
でも、それは、その発言をする人になんの意味があるだろうか。
それによって何か不利益をもたらしたのだろうか。
何故、人は自分の思い通りに他人が動かないとその相手を詰るのだろう。

私にとっては長年の疑問だ。
何故ならそういう人たちが多く私の周り存在していたから。
そして、私はそういう人たちから尽く逃げ回っていたたからかもしれない。

逃げる、とは良い表現ではないかもしれない。
でも、責め続けてくる相手をどうしたら良いのかわからなかった。
彼らは私が彼らの発言通りになるまできっとそれをやめないだろうから。

誰かの期待通りの人生を歩むことを私は放棄した。
誰かの期待に答えること、そこに意味はないと判断したからだ。
そして、そのような人生を送っていた日々を振り返っても意味がなかったからだ。

それでも、人は言う。
なんでそう意固地なの?と。

何と比べているのだろう。
それはあなたの意見と比べているのではないのか。
そう言う気持ちが募るたび、言い返すことさえ億劫で私は逃げた。
逃げるが、勝ちである。

今日、とある人から勧められたブログを読んだ。
世にも著名な方のブログ(しかも有料)だ。
読んですぐに気分が悪くなった。

それらしく書いているけれど、結局は他人が自分の思い通りにならなかったから責めている、
そう言う文章ばかりだったからだ。
あの人はこう言う時にこうだった。
あの人はこう言う時に私にこう言うことをしてきたから切った。
みんな私から去っていた。

そう言うことが書いてある。
文章的にうまい書き方だからもしかしたら気づく人はいないかもしれない。
けれど、結局はそう言う考え方がその現状を招いているのではないだろうか。
他責ばかりの文章で辟易してしまった。

正直、私はいろいろな人と疎遠になることがある。
でも、相手が間違っていたとか、相手のせいだとは思っていない。
そして、自分のせいだとも全く思っていない。

正しいとか正しくないとかは人間関係において存在しないと思っている。
要は、合うか合わないか、それだけなのである。

なのに人はそれを履き違える。
あの人が●●だったから、とか。

でも、そんなことはどうでも良いのだ。

今、そこにいなければ、自分で自分の人生に必要がないと判断しただけなのだから。
その判断にお互いに正しいとか、正しくないとかは存在しないと思っている。

他責より自責とか、綺麗な言葉があるけれど、
正直、何も責めなくて良いのではないかと思っている。

結果がどうなろうとも、その時その時の判断に責任を持てさえするならば、
全て、自分にとっては正しいのだから。

アガスティアの葉 全てを聞き終えて

今日、ようやく2年半もの月日を経て、
64回の寺周りを終えて、
アガスティアの葉1章、全てを聞き終えた。

今、感じていること、それは「無」である。

私は詰まるところ、ずっとこの2年半アガスティアの葉に逃げてきたのだと知った。

アガスティアの葉を開いて、全ての人生を知れば、
きっと私はこの人生というものに意味を見出し、
きっと私はこの人生にやる気を出すはずだ!とずっと思ってきたのだろう。

その反動が、「無」である。
後日、全文をさらにアップしようとは思っているけれど、
その前に今日の気持ちを書き記しておきたいと思う。

初めて、アガスティアの葉を大阪に開きに行ったのが、
2017年5月のことだった。

私の葉であることが特定されて、
先生は何やら紙に書き出していた。
私はそれを見ていた。
そして、その紙には、72才のことまで書かれていた。

ということは、だ。
今日までまるで気づいていなかったのだけれど、
その時点で私の人生は全て先生には読めていた、ということである。

それでも尚、全てのカルマ解消後でないと続きは教えない、
アガスティア聖者は書いていた。

何故なのか、今ならわかる。

私のこの性格のせいである。

もし、あの時全て私に話してしまっていたら、
カルマ解消で64週間土曜日に神聖なる場所(神社とか)でお祈りなんてこの私がしたであろうか。

答えは、否である。

ただでさえ飽きっぽい、気の変わりやすい私が、続けていたとは思えない。

先生でさえ、こんなパターンはほとんどない(普通は大体1回目で人生の大まかな全容を知らされるのだ)と言っていた。

それは単にこの私の性格をもちろんのことながらアガスティア聖者は知っているからだったのだろう。

そのおかげで、この長い苦行のようなお勤めも、未来を知りたい、その一心で無事に終えられたというわけである。

アッパレだよ、本当に。

そうして、大まかではあるが人生の全容を知った今。

何を思うかというと、結局は私は私を生きなければならない、という当たり前の事実であった。笑

私は、この自分の感情の起伏や、落ち込みやすさ、精神の弱さに辟易していて、
それらは葉を開くことでどうにかなるもんだと期待しまくっていたところがある。

なんだか、アガスティア聖者にこう言われたようだった。
「お前の人生なんだから、お前が全責任を追ってきちんと生きていけ」と。

まあ当たり前のことなんだけれど、今日、この日までの私は違った考えを持っていたのだと思う。

全て他人任せにして、自分の人生なのに、傍観者でしかなくて、
早くこの人生が終われば良い、それしか考えていなかったのだ。

何もやる気がでず、ただ、生きていくために生きている日々。
そんな日々を終わりにすることを心待ちにしていた。
それが、今日という日なのだとずっと勘違いをしていた。

だから、「無」なのである。

今日、ある意味、その現実を身を以て理解した今。
ある意味、生まれ変わったとでもいうべきだろうか、
結局は自分の人生のケツは自分でふかないといけないのである。

内容としては、なかなかどうして良いものだったように思う。
お金も得るし、裕福にもなるし、結婚もできるし、海外旅行もかなりいくようだし、
ある一定の年になれば、ずっとやりたかった自営業もできるし、
私が思い描いている未来、そのものに近かったように思う。

だから、ずっと英語に恋焦がれ、誰に勧められたわけでもなく、
良く分からない理由で英語を学んでいたのかと思うと、
まあきっと潜在意識は全て知っているんだろうなとも思う。

ちなみに将来やる自営業はスピ関係だそう。
将来の夫が協力的で、一緒にやるかも知れないと。

でも、嬉しくないのは何故なのだろうか。

グルにでもなりたかったのだろうか、私はw

子供については、産むチャンスはあるけれど、
あなたの体力と、精神的な弱さとを鑑みてしっかり決断しなさい、と言われている。

世の中にバンバン子供を産んで育てている人や、
若くて何も考えずに産んだ人、歳をとってようやく産めた人、
いろいろいるけれど、私はそういう人たちよりも劣っているのかも知れない。

産むことが全てでもないし、産めばすごいってわけでもないけれど、
そこに対してハードルが高い私の精神の弱さには再認識したけれど、ちょっと引いた。

でも、こればかりはそんな自分で選んだ弱い精神と一緒に生きていくしかないのだと思っている。

ちなみに間違いなく、今のこの精神の状態で子供を産めば、
きっと私は精神病院に行くか、子供が病院送りになるであろうことは、
その話を聞いた瞬間に未来を見るかのように、ありありと見えてきた。

何故こうも普通の人が普通にできることが私には難しいのだろう。

そして、アガスティアの葉のセッションでは、通常読んだ時から未来しか語られないが、
しっかり私の過去も書かれていることを初めて知った。

私が大学時代に薬をやっていたことも、キャバクラで働いていたことも、
子供を堕したことも、もっとやばいことをやっていたことも、
インドの先生は全て知っていた。

ごまかそうとしても、もはや無駄なくらい、書いてあるのだそう。笑

それでも、不思議なことに、夜のバイト(クラブとか)は週1とかなら、
精神に異常をきたなさいから、バランスさえとれば、やってみたら良いと言われた。

この年でそれをする選択ができるかどうかはかなり謎だけれど、
なんて現実的なアドバイスもするんだろう、アガスティア聖者よ、とちょっぴり思ったのであった。

そして、もう1つ、
ivarnaという人の西洋占星術ではあるが、ソウルメイトに関して受けたリーディング(これがすごい精度と量なのだ)
では、2020年の夏から2021年の夏の間に出会うと書いてあって、
インド占星術を元にしているアガスティアの葉(まあどっちが先って言ったらアガスティアだろうけど)と、
時期が一緒であったこと。それは、もう占星術を超えてリーディングされてるのだろうとは思うけれど。

その相手は日本人ではないことと、私が人生を通して海外を旅することと、なんとなく共通点があるものなんだなあと思った。

というわけで、結局未来を知ったって、生きていくのは私でしかないから、
明日からまた精一杯1日1日を生きるしかない、ってわけでございます。

ああ、もう寝よう。

アガスティアの葉 1章全文

2017年5月某日 @大阪

アガスティア聖者が昔書いてくれた葉から○○さんの第一章を読んでいきます。
第一章というのは、今からあなたの人生に起きることを全般に大まかに教えてくるれるものです。
愛で溢れている神様シヴァ神の足元に跪いてアガスティア聖者はこの娘さんの第一章を読んでいきます。
アガスティア聖者がそれを教える前にこの娘さんが今の現世の現状である暗い部分である、
混乱、不安、心配、迷い、全てが消えてこれからの人生に光のような明るい人生、
楽しい人生、良い流れの人生・輝く人生を歩んで欲しいと祈りながらこれを教えていきます。
これを教える前に、この葉があなたのものであるという証拠を教えていきます。
シルキッティ(なんとかかんとか)これはあなたの左手の親指の名前です。
それは良い運をもたらしてくれるということがあります。
何故ここで、あなたの指紋の名前を教えるのかというと、この指紋によってあなたの葉を探し当てることができたからです。
これからあなたのタムル歴の誕生日を教えていきます。
あなたはプラヴァヴァアというタムル歴の年で、アーリーというタムル暦の月で、タムル暦の日にち 日に、金曜日に生まれました。
西暦に変ると、  年 月 日の金曜日に生まれました。
あなたが生まれた時に空に輝いていた星の名前は、プーラールンと言います。
だから、あなたの運命の星の名前はプーラールンと言います。
これからあなたが生まれた時の惑星の位置を教えていきます。
月が射手座に座っております。月が射手座に座っておりますので、あなたは射手座です。
ラーグは魚座に座っております。木星が羊座に座っております。
ケートゥは乙女座に座っております。土星蠍座に座っております。
太陽、火星、水星、金星、これらは蟹座に座っております。
このような惑星の配置で、伝統的に良い家族にあなたは最後の子供として生まれました。
あなたは良い実力と良い才能の持ち主であります。信教深い方であります。
あなたは物事をすぐ理解できる方で、飲み込みが早い方であります。
美的なセンス・芸術的なセンスもあなたにはあります。
優しい方で、気前の良い方であります。
愛する心、温かい心を持っている方であります。
楽観主義な方でもあります。
あとは情熱的なところもあって、ロマンティックなところもあって、恋に落ちる部分も度々あります。
人間関係を強く求める部分もあなたにはあります。
贅沢な暮らしを味わいたいという欲望もあります。
色んなことに興味と関心と野心的な部分があります。
社会のことに興味と社旗貢献したいという部分があります。
精神世界にもビジネス世界にも興味と関心がある方であります。
人たちに好まれるような、人たちを惹き寄せるような魅力的な部分があります。
こういう風にあなたには良い能力と良い実力と良い性格の持ち主なのですが、少し無責任な部分があなたにはあります。
自分の都合よく動く方であります。身勝手な部分があります。頑固な部分があります。
気が変わりやすい方でもあります。
そのように、その時にあった良い幸せな部分だけ取って、あなたは安楽に、楽観的に人生を歩みたいと思うことがありますが、
本当にその道が良いのかどうか、細かくあなたは理解しないので、そのせいであなたは問題に巻き込まれてしまうことがあります。
それによってあなたには自信とか、勇気とか湧いてこない部分があります。
そういう先入観もあるので、それによってあなたは精神面で弱くなってしまうことがあります。
あなたは愛があっても、その愛を表現できない・感じない部分があります。
愛を本当に自分に適している人に表現できないこともあって、そのような相手を判断できない部分があなたにはありますので、
間違った相手に自分の愛を伝えて、それによって悪い影響を受けてしまうようなこともあります。
これは、あなたの性格です。
あなたは相手の人たちの言いなりになって、先入観を持ってしまったりすることがあります。
これらの影響であなたの人生は不安定になってしまうことがあります。
怠惰な部分もたまに出てくることもあります。
やるべきことから逃げてしまうことがあります。
粘り強さとか、責任感が足りない部分があります。
このようにあなたの良い点よりも、あなたの人生を無駄にさせてしまうような欠点が多くありますので、
この欠点をあなたが理解して、見直すことによって、あなたには薔薇色の人生・成功する人生を歩むことがあります。
あなたは本当に幸福に恵まれた、幸運に恵まれた方なのですが、自分のこういうような欠点で、
人生をダメにしてしまうことがありますので、だからこそあなたは十分に気をつけなければなりません。
これはあなたの持って生まれた素質です。

あなたの両親が2人とも今健在です。
両親が今2人とも働いております。
両親は2人とも良い関心と良い愛をあなたに対して持っている方達であります。
あなたの人生や生活を見て心配な材料になっています。
あなたには1人の男の兄弟、1人の女の姉妹がおります。
女の姉妹は結婚しています。あなたも結婚したことがあります。
今は離婚しています。子供はいません。
再婚したいという願望があります。でも、それに対して大きな努力をしていません。
あなたは大学を勉強された方であります。
あなたは今、雇われて仕事をしています。
人たちを楽しませるようなサービス業のようなところにあなたは勤めています。
仕事を変えたいという考えが今あなたにはあります。
将来に自営業をやりたいという願望もあなたにはあります。
仕事を変わりたいと思っていますが、それに向かって前向きに大きく努力しておりません。
このような情報を元にあなたの名前は○○です。

○○、これはあなたの父親の名前であります。
○○、これはあなたの母親の名前であります。
今まで教えてきた情報がこの葉があなたのものだということと、あなたがこの人生に生まれたということの証拠になります。
これを見る時にあなたは今30歳です。
日本から見ると29歳なのですが、インドから見ると30歳です。
この日に来てこの葉を開くということはあなたの運命です。
今の時期は良くありません。過去2〜3年前からはあまり良くありません。
今から32歳までもあまり良くありません。その点、あなたは本当に気をつけなければなりません。
何故なら、この時期に人生が不安定な状態になるからです。安定しない部分があります。
だからこの時期に安定した恋とか、安定した仕事とか、そういうものを見つけるには難しい部分があります。
何故ならこの時期に、何事にもはっきりした決断、判断というものはされないことがあるからです。
だから、この時期に混乱状態で動くようなことがあります。
今の仕事をそのまま続けるような運命があります。
職場を変えようとしても、仕事の内容が少し変わるようなことがあるとしても、このようなサービス業としてあなたはやるようなことがあります。
他の仕事をするためにたまに努力しますが、それも上手くいかず、再び同じようなサービス業にあなたは戻ってくるようなことがこの時期にあります。
この時期にこういう風な不安定なことがありますので、その点あなたは十分に理解しなければなりません。
自営業をするにはこの時期はあまりふさわしくありません。
自営業に集中するのはあまり良くありません。
仕事には気をつけること、職場にも気をつけること。これは大事なことです。
仕事の関係で健康的な問題が出てきたり、精神的に弱くなってしまうことがありますので、その点気をつけなければなりません。
だからあなたは、たまに仕事をして、たまにリラックスしたり、そういうことをした方がいいです。
そういうバランスをとるようなことをこの時期にした方がいいです。
あなたは精神面ではダメにならないように、弱くならないように、このようなことを従ってやると良いです。
この時期に結婚をするのもあまり良くありません。
このようなチャンスとか、出会いがあったとしても、結婚したらすぐ離婚するようなことになります。
このようなチャンスがこの時期にあったとしても、我慢、忍耐力というのは大切です。
恋が出来たとしても、安定した形で続かないようなことがあります。
本当に愛を持って、本当にあなたの良いことを思ってくる人はこの時期は、誰もいません。
誰がきても、あなたはすぐ落ちてしまうようなことがありますので、恋愛とかそのようなものに関わらない方が良いです。
夢中にならない方がいいです。
だからこの時期にお金を稼ぐことに集中すること。
あとは、健康の面でも気をつけることは大事です。
経済的に恵まれるようなことをやったり、体にダメージにならないようにすることは大事です。
あとは、精神面でも落ちないように、弱くならにようにすることも大事です。
あなたは精神世界にあなたが持っている関心を理解して、精神世界に関わることによって、精神状態が悪くならないようなことになるだろう。
周りに良い友達が支えになってくれるようなことがあります。
新しい友情関係も生まれるようなことがあります。
海外の旅をするようなことがあるとしても、あまりしない方がいいです。
もしどうしても行かなければならないことがあった場合は、気をつけて行った方が良い。
両親との関係をもっと深く持った方が良いです。
何故なら両親の愛と祝福はあなたには大きく支えになってくれるからです。
両親との関係を深めたり、兄弟との関係を深めたり、そういう風なことをすると良いです。
良く会ったりすることは大事です。
何故、この時期に良いことよりも悪いことばかり起こるのかというと、今の惑星の位置があなたの味方にはなっていないからです。
その他に、生まれた時に一番大事な位置の惑星が悪いところに座って悪い影響を与えています。
あとは、みんなにもあるようにあなたにも前世のカルマの影響があります。
この人生おいて、過去にいくつかの人々から、特に男性たちから悪いエネルギーを受け取っております。
そういうものが重なって、過去3年前からあなたの人生を弱くさせています。
今から3年もあなたの人生を弱くすることもあるだろう。

このような問題がこれから先の人生に大きな影響力を与えないためにも、これからの人生であなたは楽しい人生を、
明るい人生を歩むために、もっと勇気を持って、前向きな考えを持って、あなたが思う通りの輝く人生を歩むために、
この人生のカルマの影響や惑星の位置を治すために、アガスティア聖者はあなたには13章14章の2つの章を教えておりますので、
それを開いて、その教えているカルマ解消方法をきちんと実行することによって、あなたは13章14章の2つの章を開いて、
その教えているカルマ解消方法をきちんと終わるまで実行してから、その後、これからの続きを読むことができると伝えて、第1章を終わります。

アゲマンか揚げマンじゅうか議論

最近、私がアゲマンなのかサゲマンなのか揚げまんなのか議論が出てきているけれど、
まあ世に言う「アゲマン」ではないと思う。

ただ私と付き合った人たちが成功した、と言う結果が残っているだけ。

その理由1
見返してやりたい!
俺を捨てたあいつを見返してやりたい!パターン。

当時、私に見事に捨てられた彼は、
離婚して私と結婚する!と言い張っていた。
が、私はそんな他人の家族ぶっ壊します的なカルマしょいたくないし、タイプでもないから、
違う男を見つけ、結婚してしまった。
そんな私をずっと見返してやりたくて、頑張った。
それが、来年上場する会社の社長である。
もう見返したと認識しているのだろう、本人はそう私に語りながら満足そうだった。
そして、上からこう言い放った。
「困ったら、なんでも言えよ。」
誰がお前に頼むかって感じだよね。

その理由2
こいつを幸せにしてやりたい!

起業当初私の元夫はクリスマスをサイゼリアで過ごした時に、
泣きながら、
「こんなクリスマスでごめん。俺、もっと頑張るから。」
と言ってくれた。(今考えるとある意味いいやつだったな)
そして、今、(離婚はしたけど)上場会社の社長やっている。
私には一銭も入ってこないが、まあこれもよしとしよう。

その理由3
私がただできる奴と付き合っていただけパターン

そもそも私は自分がこいつなんかすげえ!と言うところがなければ、
絶対に一瞬でも好きになることはない。
その千里眼がゆくゆくその通りになっただけという。笑

客観的に見れば、私が「アゲマン」に見えるかもしれない。
そして、世の中はなんだか応援してくれる人が「アゲマン」とか、
男を手のひらで転がせる人が「アゲマン」であるとか、
そういう認識が多いことと思う。(実際そうなのかもしれないけれど)

でも、悔しさ、罪悪感、劣等感、それらで育てていくのも、
結果的に成功してれば「アゲマン」だろwww
と振り返って思ってしまった私であった。

別に私は確かに何もしていない。
でも、本人が努力せずに勝手に相手が努力していく、
それも「アゲマン」認定して欲しいw

結果的に相手が成功すればいいんだろ?
ついでに言えば、結果的に私には何もかえってくることはないけれど、
本人たちが成功して良い人生を送ってるんだから、
もう私は「アゲマン」だろ?と最近独言ている。

それもこれも、先日、今付き合っている彼に、
あなたはアゲマンじゃないよね、と言われたことが発端である。
以前の会社では彼と一緒に働いていて、
周りから勝手にアゲマン認定されていた私に対して放った、
報復の言葉であった。

きっと彼は、アゲマンとは男に尽くし、褒め、上げていく女を言っているのだと思う。
だがしかし、残念ながらお前ら男は尽くしても、褒めても、別に成功しないだろ、って思うのは私だけではないだろうよ。

できない奴は、正直何をしても、できないままだと思う。

要は、そこで、何くそ!という気持ちが沸かないような人間は何をしてもらっても、
何が起こっても、きっと成功しないのだと思う。

そこで思ったこと。

お前が梲が上がらない理由を私に求めるんじゃねえよ、ということ。
私が褒めそやして、育てて上げていないから、あなたができないままなんじゃない。
お前にその気概がないからだ、と私は思う。

でも、彼はきっと将来成功するのだと思っている。
そのきっかけが私が居なくなるからか、私に粗末に扱われているからか、
それは定かではないけれど、彼は数年後にまあまあの年収になっていると思う。

社長で成功することはないと思うけれどね。

そして、その時に私は居ない。

次の女にそんなものは差し上げます。

そう思って今一緒にいるのだけれど、たまに本音が漏れちゃって、
彼は私が将来そばに居ないと決めていることを知っている。

それでも、なぜか仕事を頑張っちゃう男のサガよ。
私との将来のために頑張ってるんだって言葉を聞くたびにゾッとする。

私は最初から付き合う時から、あなたと結婚はしないと言っている。
それを聞いていて何故今頑張っているのか、私には全く理解できない。

でも、この私にはよく分からない彼の頑張りが彼をある程度裕福にすると思う。

ということで、私はアゲマンだってことで、良いかしら?(彼には内緒)

いいかげん

普通の人間からすると、私はとても奇異な存在に見えるらしい。

私の現在付き合っている人がそうで、
至極もっともな教科書的なアドバイスを頂くけれど
申し訳ないけれど、私が言いたいのはそういうことではない
という気持ちににしかなってない。

そうじゃないことは残念ながら1度もない。

だからこそ、私は私のような人間を欲してやまない。

同じ感覚を共有できる人が一人でもいたならば、
と日々思っている。

むしろ、その一縷の希望のために生きながらえている。

でも、残念ながらそんな人は一人もいなかった。

説教もアドバイスもいらない、
私の想定問答集に既に入っていることしか言わないから。

その問答集を超える人を熱望しているというのに、
天は私によこさない。

由々しき事態としか言いようがない。

こんな世界に落として置いて、放置ですか。

という気落ちが常に離れない。

だからこそ、私はその反撃として、
自分を傷つけることを自ら選択している。

何が言いたいかと言うと、
いい加減にせえや、と言うことだけなのである。

アガスティアの葉 ようやく編

アガスティアの葉の続編が12月にようやく明かされることとなる。

カルマを解消するまで、続きは教えられない。
と断言されてから、もうすぐ3年。

長かった。そして、今思えば早かった。
この感覚のようにこの人生を早く終えたいと思い続けることはいけないことだろうか。

毎週土曜に64回神聖なる場所でお祈りをすることがカルマ解消の方法だとアガスティア聖者は書いていた。

そして、それをようやく終えたのが今年の8月末。

それから、待ちに待って4ヶ月後に連絡が来た。

ようやく私の未来のお出まし、というわけである。

もうここまで来ると、長かったのか短かったのか私にはもう分からなくなっている。

実は、先月の健康診断のついでにオプションで子宮頸癌検診を受けてみた。

今なら3,000えん!みたいなセール制度がどうやらあるらしく、
うっかり受けてしまった。

どうせなんもないんだろうなと踏んでいたら、
見事に当選致しました。

かなりのレベルで子宮頸癌の疑いあり、再検査を要する、とのご判断を頂きました。笑

その当初はビビって、泣いて、あー私癌になるのかーーーなんて思っていたけれど、
あれから1ヶ月。

まじでどうでも良くなったよね。笑

その時思ったのは、子宮系の癌を治したとかで数十万のセミナーに行った私の無意味さ。笑

私は普段、肉は食べないし、豆や野菜や穀物を多く摂取している。

そもそもそのセミナーに行かずともそういう食生活だった。(吐く時は別な)

んで、この結果。笑

文字通り笑うしかなかった。

そこで私が思ったのは、多分食生活で癌になるのではないんだなということ。

糖質制限を世に広めている人、それで上手くいったような気がして数年そういう生活をしている人、
さらには数十年そういう食生活をしている人、それぞれいるけれど、
癌になっていない人の方が多いんじゃないかな。

そのセミナーで彼女が主張していたことはある意味正しくて、ある意味正しくなかったのかもしれない。

今回のことから、気づいたのは、
多分、癌もその他あらゆる病気も、本人の気の持ちようだな、と笑

当たり前すぎてみんなが見過ごしていること、それは、気という存在だと思う。

やる気もそう、元気もそう。
そして、病気もそう。

要は気分次第ということなんだろうと独りごちた。

鬱々とした気分でいれば、病気になる。

そうでなければ、どうにかなる。

ただ、それだけなのかもしれない。

人間というものはとてもシンプルに設計されているのかもしれない。

やれあの栄養成分を摂れだの、やれあれをやれだの、
そういう些末なことはきっとどうでもいいのかもしれない。

おそらく全てを総じているのは、気なのだろうと思う。
意思というべきか、生き方、生活、なんと称すべきかは分からないけれど。

まあ要はそういうことなんだろうな、と気づいたきっかけであった。

その健康診断の結果を受け取った日にがん保険に入ってみたから、
90日は病院に行かないようにしている。笑

その後の結果は、神と私の思し召し次第、ということなのだろうな。

癌なら癌でいい。
癌じゃなないなら、別にそれでもいい。

なんだかもう、そういう心境でしかない。

そんな前向きなのか、投げやりなのか分からない状態で来た、
アガスティアの葉、来日します報告はもはや吉報なのだろうと思う。

この投げやりで無頓着な自分への生の取り扱いをきっとどうにかするきっかけとなるであろうよ。

私は、早く死にたいし、いますぐ死にたい派。
でも、痛いのも辛いのも嫌だし、自殺はまず出来ない。

だからこそ、自分が死ねる時期を知りたかったのだ。

このどん底泥沼状態がどうなるのかを知りたかった。

このままなら、もう諦めがつく。

そして、そうじゃないなら私はようやく希望を抱ける。

ただ、その試験のボーダーラインを知りたかった、
それだけだったのに。

ここまでやりよったな、という感覚は拭えはしないだろう。

でも、やっぱり私はセミナー事業というか、ああいうのには相入れないことだけは特記したい。

本人は良かれと思ってやっていることは理解している。

それで良くなる人もいるだろう。

でも、それでも良くならない人に対する対応はどうしているのだろうという疑問はある。

私は捨て置かれているw

私が望んだことではあるけれど。

要は、ああいうビジネスは儲ければいい、という前提にあるだろうな、
と邪推する判断材料になってしまったということだろう。

先生という立場で慕ってくれる人の面倒は見るけれど、
そうでない人は、そのまま放置する、それがセオリーなんだろう。

そういうやり方に絶望している人には目もくれない。

私は、それがセミナービジネスであり、女子のキラキラ起業だと思っている。

だから、どうしてもやりたくなかったし、断った。

というか、私は何度こういう経験をしなければならないんだろう。

最初は相手を応援したくて、参加する。

でも、相手の底が見えてくると嫌になる。

人にもよるけれど、徹底的に干されることもしばしば。

でも、どうしてか、人を信じようとしてしまう癖が抜けない。

もうこの不毛な繰り返しは何度目だろう。

ということで、もう私は一切そういう物には関わらないようにしている。

気づかない人を顧客にすればいいだけなのだから、
私がそこに参加してあげようと思う理由さえ、もはやないのだろう。

他人という人生

私の幼い頃からの願い。

どうか他人になってみたい。ということ。

昔はその願いの理由は、他人になることで自分を客観的に見ること、
そこに主眼が置かれていた。

他人の目を恐れていたからだ。

今は、違う意味で他人になってみたい。

正しくは、他人になることで自分以外の感覚を感じてみたいということだ。

私はこの自分とうまく相入れなくて、自分の人生とも全然相入れなくて、
自分は苦しんでいるという認識がある。

でも、それはあなたの思い込みだという人がいる。

もし、本当に私の思い込みであって、みんなも同じような感覚に苦しんでいるのなら、
ぜひ、一瞬でも良い、お互いを交換して確認させて欲しい、それだけなのだ。

それで、きっと私は納得する。

どちらが正しいにせよ、理解できる。

でも、今は判然としない。

そして、全く納得がいかない。

私に偉そうにアドバイスする人々が私よりも辛い人生を歩んでくれていますように。

そうじゃなければ、私に与えてきた数々のアドバイスたちはゴミ同然だったということになってしまうし、
そもそも、それを一瞬でも信じて従おうとした自分が救われないじゃない。

そしてもう一つ。

どうか人にアドバイスするのであれば、
どうかどうか、まず最初に自分を省みて頂きたい。

長く生きてるからとて、理由にはならないし、
それが相手にどう影響を与えてしまうのかまでをも考えて発言はするべきなんじゃないかと思う。

私は結果的にそれらに一切従わないということになってしまった。

それを判断するのは私だし、アドバイス(だと思ってる)は、
あなたの人生における経験に基づくものでしかないという単純な事実を受け入れて欲しい。

せめて前置きに、自分の今までの人生経験によると、
という認識を持って欲しい。

判断しているのは、あなたであって、
私ではないということ。

だからこそ、この私の認識を改める必要があるのであれば、
一瞬でいい、他人に成り代わってみたいと思う。

ラッキーな人生はラッキーなのか疑惑

人は皆、努力をすれば報われるとは信じてはいないだろう。

その逆で、無意識で、成功した人は努力をしている(なずなのだ)ろうと思っている節がある。

私は、借金地獄の人も、ヤクザも、政界の重鎮も、所謂上場企業の社長も、中小企業の社長も、
平社員も、いろいろな人をずっと見てきたけれど(全員とはやってないよ)、

今言えること、別に結果は努力に比例していない、ということ。

だからいつも彼には言っているのだけれど、
別に努力すれば良いってわけでもないからね、って。

私は最近思うのだけれど、それはその人の人生の中、そしてもっと大きく言えば、
この世界の中で決められた運命であって、それが必要ならその努力をするし、
それが必要じゃないからその努力をしないか、その努力がよく分からない方向に向けられているような気がしている。

きっと、大枠で見れば、全て決まっている、言い換えれば、全て自分で決めている人生なのだと思う。

きっと多くの人がそれを認めることはなし、認めたくもないだろうけれど、
人には役割分担があって、きっと人生の中でも、あるドラマを演じている女優俳優と変わらない動きをしているのだと思う。

本人が気付こうと、気づかまいと、認めようと、認めまいと。
ドラマを演じるのに、見た目もなにもない。

みんながみんな演じているのだから。

そう思うと、ただひたすらに流されていくのが人生で、
その流れ方をたやすくするのか、難しくするのか、それをしているのが「私」と私が思っている存在であり、
人生なのだろうと思う。